3.富島造船所の受注船

6 ~ 14

 次に見積書や契約書が残されているそれぞれ受注船について、大日水産株式会社社長日野賀生氏からの聞取り調査を行いその内容の補足確認を行っている。

写真4 淡路島・富島造船所(昭和40年8月21日撮影)、昭和40年9月8日進水の第八開洋丸

写真4 淡路島・富島造船所(昭和40年8月21日撮影)、昭和40年9月8日進水の第八開洋丸

写真5 第二十五号住吉丸(HG2-983)40t 大日水産株式会社所属<br>鉄製弯曲ブリッジとフロントガラスが特徴 富島造船所

写真5 第二十五号住吉丸(HG2-983)40t 大日水産株式会社所属
鉄製弯曲ブリッジとフロントガラスが特徴 富島造船所

 第八開洋丸(写真4)は造船部建造契約書綴に開洋丸造船契約書、昭和40年1月4日付の請負契約書がある(資料目録受注船)。発註者の香川県大川郡引田町引田の不動冷蔵有限会社代表取締役網本悦から活魚運搬船が発注されている。請負金額14,550,000円で船体のみで、進水式に要する費用、エンジンの据付け費用等は含まれていない。昭和40年9月8日進水。富島造船所が手がけた初めての60屯型の活魚運搬船で、全面が弯曲した鉄製ブリッジに曲面フロントガラスが特徴であった。このブリッジ形状は第二十五住吉丸HG-983にも採用され、後の土佐丸型活魚運搬船に幅広く採用される。このブリッジは大日水産株式会社から依頼された地元鉄工所が作成し船体に取付けた。またブリッジ内にはリクライニング・シートまでつけられていた(写真5)。

 土佐丸49屯シリーズは、高知県漁業協同組合連合会から昭和40年(1965年)第一土佐丸、昭和41年(1966年)第二土佐丸、昭和45年(1970年)第三土佐丸が相次いで発注されている。土佐丸49屯型は従来の立ち上がった水押を少し倒し、弯曲した鉄製のブリッジに曲面フロントガラスを採用し、後方に倒れたアンテナを搭載した今までにない船型であったので「土佐丸型」とも呼べるものである。

 見積書控え綴りには、高知県漁業協同組合連合会が行った鮮魚運搬船(第一土佐丸)の入札に関する書類がある。昭和40年5月付の鮮魚運搬船仕様書の一般計画には「本船は近時発展してきた養殖漁業の内〝ハマチ〟を主体とする円滑なる活魚運搬事業を行うと共に安価な養魚用飼料の供給を図ることを目的とする鮮魚運搬船である。本船の船型は軽快(明石型)にして操従至便なることを要し、十分な復元性と凌波性を有し居住については快適且つ衛生的な設備を有するものであることを要する。(抜粋)」とあり、養殖ハマチを運ぶ明石型活魚運搬船を新造する予定であったことが分かる。なお、綴には高知県漁業協同組合連合会の罫紙に仕様書の下書きが残されており、おそらく大日水産株式会社がその原案作成に関わっていた。昭和40年6月14日付の鮮魚運搬船入札案内は、木造造船所宛に高知県漁業協同組合連合会上田喜次郎から送付されたもので、書類として一般配置図(保存なし)、仕様書、入札心得の各一通が添付されていた。入札は昭和40年6月21日15時に高知市中島町115番地の高知県漁業協同組合連合会で行われた。何社が参加したかは不明であるが、ほぼ大日水産株式会社との随意契約になったと考えられる。

 第一土佐丸(写真6)は昭和40年7月16日付の鮮魚運搬船造船請負契約書がある。注文者の高知県漁業協同組合連合会会長理事上田喜次郎から鮮魚運搬船建造工事が発注されている。着工昭和40年7月16日、完成昭和40年10月10日、請負金額14,800,000円であった。富島港で公式試運転のうえ引き渡した。第3表第一土佐丸見積書は請負金額と同額で、鉄製ブリッジ工事1式513,000円、魚艙内一式(銅板、銅線、銅鋲)42,800円、魚艙槙栓150枚×250円で37,500円が計上されている。縦6.4cm×横9.1cm×高さ12cmの槙栓1個250円であった。4間8艙の活魚艙に150個所の栓口があった。補助金融資を受けるために、昭和40年5月15日付の昭和40年度沿岸漁業構造改善対策事業設計書が残っている。第二土佐丸は昭和41年付の鮮魚運搬船工事契約書がある。注文者の高知県漁業協同組合連合会から鮮魚運搬船建造工事が発注されている。着工昭和41年8月4日、完成昭和41年10月22日、請負金額18,500,000円、第4表第二土佐丸見積書であった。富島港で公式試運転のうえ引き渡した。第三土佐丸は昭和45年10月15日付の昭和45年度種子島周辺漁業対策飼料運搬事業工事請負契約書により、高知県漁業協同組合連合会から49トントン運搬船一隻が発注されている。着工昭和45年11月10日、完成昭和46年3月28日、請負金額34,201,000円であった。

写真6 第一土佐丸(K02-1647)スマートな操舵室(鉄製弯曲ブリッジとフロントガラスが特徴)<br>昭和40年発注の土佐丸38t 高知県須崎市大谷漁協所属(富島港)

写真6 第一土佐丸(K02-1647)スマートな操舵室(鉄製弯曲ブリッジとフロントガラスが特徴)
昭和40年発注の土佐丸38t 高知県須崎市大谷漁協所属(富島港)

 土佐丸は主に高知県内で養殖されたハマチの活魚を、和歌山県和歌山市和歌浦まで運搬し、そこから大阪、神戸、京都の卸売市場にトラックで輸送していた。高知県での土佐丸の寄港地は土佐市宇佐浦ノ内湾、須崎市野見・大谷湾、宿毛市藻津(もくず)、小筑紫(こつくし)、栄喜(さかき)、大月町泊浦、橘浦などであった。宿毛湾は黒潮の影響を受け温暖なことから1年魚(当歳魚)で瀬戸内海より大きく育ち、30cm~40cmもあったので出荷できた。大日水産株式会社・兵庫養殖も高知県漁連と養殖ハマチの取引があり、1年魚2kg(中間種苗)を購入し、昭和42年頃に開設した宮崎県延岡市宮野浦の宮崎養殖場、熊本県上天草大矢野町満越の天草養殖場、大分県津久見の津久見養殖場で二歳魚まで育て、5~6kgのブリとして出荷していた。ブリは活魚ではなく〆て箱詰して冷蔵トラックで輸送し市場に出していた。その方がモジャコから養殖するより効率が良かった。昭和40年代は活魚として当歳魚を出荷する場合と、二歳魚まで育て冷蔵して出荷する場合の両方が混在していた。

 第一号一丸は昭和41年3月13日付の請負契約書がある。発註者:山口県下関市南部町の日本貿易株式会社代表取締役神野勝美から鮮魚運搬船が発注されている。長さ22.10m、幅3.90m、深さ1.75mで5~6間、10~12艙、50屯型の活魚運搬船であった。請負金額18,013,840円で進水予定年月日は昭和41年5月27日、完成予定年月日は昭和41年6月5日であった。日本貿易株式会社宛の見積書は3通あり、昭和40年付けでは25,827,270円(第5表)、昭和41年2月13日付では10,353,230円(船体のみ)、昭和41年2月18日付では17,978,000円(第6表)の見積となっている。第5表第一号一丸見積書には魚艙内一式(マキ栓、銅板、銅線、銅鋲)200,000円、メドサシ180枚11,000円が計上されており、槙製の木栓が180枚あったことが解る。塗装一式の項目からは船体塗装に毒チャンが使われていた。エンジンは、昭和41年5月に高知県漁業協同組合連合会から6,100,000円で購入したヤンマーディーゼルエンジン230馬力(中古)が搭載されていた。徳島県出身の神野氏が船主で戦前は朝鮮南部から活魚を直接運搬していたが、戦後になると韓国から下関港まで韓国活魚運搬船で活魚を運搬し、下関で第一号一丸に積換えて神戸中央卸売市場にハモ、アナゴ、貝類(生貝)を運搬していた。主に日本貿易株式会社は韓国との間で活魚取引をしていた。

 昭和43年3月23日付、船舶売買契約証書では売渡人の大川郡引田町の開洋水産有限会社代表取締役網本善治から、買受人の大日水産株式会社代表取締役日野顕徳との間に、売買代金18,800,000円で第八開洋丸(78.98t)が買戻されている。当時は社船の船腹不足を補う必要があることから60t以上クラスの活魚運搬船が必要であった。第八開洋丸は富島造船所で錆びやすい鉄製ブリッジを伝統的な欅づくりの木製ブリッジに改修し、昭和49年2月に木栓を大日水産株式会社社船で初めて空気圧駆動式開閉弁(シーガル巣)に8,012,100円で付替え、東京計器製レーダー850,000円を設置した。また第八開洋丸を買い戻し伯銀と船名変更した。「大日水産の活魚運搬船の名前は、住吉丸を継承していた中で、伯銀のみが違っていた。この船の名前は先代社長日野顕徳氏が名付けたもので、なぜこの船だけが住吉丸と違っていたのかは分からない。しかし養殖漁業に伴う給餌船(活魚運搬船にも使用)には銀鱗(徳島県牟岐漁業協同組合)、有明などの漢字二文字の船があることから、これらに関係して名付けたものかもしれない(日野賀生)。」伯銀は6間12艙、自動栓約80個所、78.98tの船で大変使いやすい活魚運搬船であった。

 昭和45年(1970年)から昭和54年(1979年)大日水産富島造船所の在庫表(資料目録在庫表)が残されている。在庫表はその内容が大日水産富島造船所における、木造動力付鮮魚運搬船(ナマセン)の造船に関する原材料に関わる重要なものであるので、今回に整理し報告するものである。在庫表は毎年決算報告書(大日水産株式会社は2月決算)を税務申告及び株主報告のために毎年作成している。

 在庫表は、縦24.5cm×横19cmの伝票となっており、上部中央に在庫表、右上部に大日水産株式会社富島造船所、住所、電話番号が印刷されており、在庫表の専門用紙として印刷されたものである。項目欄には品名、数量、石数、単価、金額の記入欄が設けられている。在庫表は年度ごとにホッチキスで綴じられており、昭和45年2月(1970年)25頁、昭和46年2月(1971年)31頁、昭和47年2月(1972年)21頁、昭和48年2月(1973年)19頁、昭和49年2月(1974年)30頁、昭和50年2月(1975年)29頁、昭和51年2月(1976年)22頁、昭和52年2月(1977年)19頁、昭和53年(1978年)なし、昭和54年2月(1979年)16頁と生船報告書64頁に報告している大日水産株式会社魚在庫、昭和46年(1971年)~昭和49年(1974年)が共に綴じ紐でまとめられていた。それ以前、以後のものは見つかっていない。なお、昭和46年のものと以後では明らかに字体が異なり記入者が違うことが判る。昭和47年からは2代目船大工棟梁、宗和豊松氏の奥さん宗和貴美子氏が事務員として記録作成していた。各年度の在庫表には、木材、鋼材、副資材、機械及び部品、仕掛品在庫の区分でまとめた金額が記入されており各年度の在庫量を比較するのにわかりやすい(第7表 大日水産株式会社在庫表まとめ)。

第7表 大日水産株式会社在庫票まとめ(昭和45年~昭和54年)

第7表 大日水産株式会社在庫票まとめ(昭和45年~昭和54年)

 昭和48年に大日水産株式会社の社船として建造した第八住吉丸は、最大の活魚運搬船で126.31t、長さ33.52m、幅5.36m、深さ2.34m、ディーゼルエンジン650馬力(中古)、空気圧駆動式開閉弁(シーガル巣)、6間12艙の生間を備えていた(写真7)。100屯未満は漁船扱いであったが第八住吉丸は100屯を超えているので、貨物船113858号として登録された。乗組員は最大8人で、通常は船長、機関長、操舵員2名、機関員2名の6名で運用していた。天然魚も運搬していたが、主にハマチ養殖の拡大生産に伴い大型船が必要になった。3月、4月に1年魚(中間種苗)や2年魚を高知県や瀬戸内海の一部から購入し、大分県津久見などで短期養殖して海水温が10℃以下に下がるまでの10月、11月に神戸市垂水基地に輸送して、神戸・大阪・京都などの市場にトラックで送っていた。モジャコは種子島の専門業者から購入し、宮崎県延岡市宮の浦、島の浦にある自社で養殖していた。これらの大量輸送には大型活魚運搬船が必要であった。六車功「調査ノート明石型生船と讃岐の船大工」『瀬戸内海歴史民俗資料館だより第19号』1985年5頁には上架整備中の第八住吉丸の写真が掲載されている。船体に円形換水穴が並んでいるのが見える。第1図第八住吉丸ブリッジ及び機関部の平面、断面図(一部)は第八住吉丸ファイルにあったもので、ブリッジの形状や内部のレーダー、コンパス、リモコンスタンド、操舵機の配置、船長室には海図机と船長専用のベッドがあった。機関室には主機にニイガタ鉄工6MG25HS 650PSのディーゼルエンジンと補機としてヤンマー4LD60PSがあり、左舷に2ヵ所、右舷に2ヵ所の燃料タンクが配置されている。左舷の燃料タンク前には、空気圧駆動式開閉弁を駆動させるためのエアータンクがある。機関室の後方、小デッキには船員室があり2段ベッドが3台と個人ロッカー、引戸を挟んで賄室があった。トイレは一応船内に設計されていたが、実際には伝統的な箱便所が船尾に取付けられていた。断面図からは生間の配置を見ることができ、特にアルミ製金属ブリッジの下にある大の間(第一生間)がブリッジ下部に3分の2以上が入り込んでいる。この構造は明石型活魚運搬船の特徴的な構造である。平成3年(1991年)廃船。

第1図 第八住吉丸ブリッジ及び機関部の平部、断面図(一部)

第1図 第八住吉丸ブリッジ及び機関部の平部、断面図(一部)

写真7 第八住吉丸(富島港) 空気圧駆動式開閉弁の円形開口部に潮を出す「ヒカセ」が見える

写真7 第八住吉丸(富島港) 空気圧駆動式開閉弁の円形開口部に潮を出す「ヒカセ」が見える

 昭和49年(1974年)の在庫表には、仕掛在庫として常盛丸(6,894,340円)と養殖用の餌を運搬していたエサ船(1,295,476円)の原材料が記載されている。常盛丸は安芸灘と伊予灘との間に位置する忽那諸島の愛媛県松山市二神島港を母港として、二神島や近辺の津和島、中島や山口県周防大島から買付けた魚を広島県広島市の草津港(9-1・9-3)や三原市糸崎港、愛媛県松山市の三津浜港まで運んでいた。糸崎港からは魚をシメて神戸、大阪、京都の市場に送っていた。活魚運搬業を行っていたのは矢野家で、三隻の生船を所有し港には生簀の施設が設けられていた。このうちの一隻が第三常盛丸で昭和48年(1973年)に大日水産株式会社富島造船所で造られた。小型の明石型生船(20t)で、4間8艙の生間があった。『明石型生船調査資料集・生船写真帖(以下、生船写真帖と呼ぶ)』187頁には愛媛県松山市忽那諸島二神島港、188・189頁には第三常盛丸の建造工程写真を掲載しているので参考になる。

 使用木材について金額別に整理すると、常盛丸が米松382,320円(36.49%)、ケヤキ238,090円(22.72%)、弁甲100,652円(9.61%)、肥松90,720円(8.66%)、桧78,949円(7.54%)、クス62,655円(5.98%)、アピトン53,703円(5.13%)、タブ40,662円(3.88%)の計1,047,751円、作料不明。エサ船が米松269,600円(44.73%)、弁甲198,655円(32.96%)、米トガ37,949円(6.30%)、椨29,728円(4.93%)、ケヤキ21,840円(3.62%)、クス17,505円(2.90%)、松根12,000円(1.99%)、桧8,018円(1.33%)、アピトン7,395円(1.23%)、の計602,690円である。作料は64人×10,000円=640,000円。

 なおこの金額は木材の購入金額を示すものであり、木材の使用量を直接示すものではないが、小型の明石型生船(20t)を建造するための木材使用金額の目安として整理した。木材の長さや幅によってもことなるが購入額で一番高価なのが、ケヤキで、肥松、桧、弁甲の順である。生船の主要部材にこれらの木材を選択して使用していたことが解る。

 購入後(伐採後)木材は造船所の製材置場で1年ないし2年間ほど自然乾燥させ使用する。置場には屋根はないので当然、雨には濡れる。また厚さ2寸や2寸1分に材木を挽いた八尋以上の長尺の弁甲材は、浜の堤防から木枠を伸ばして組み、その上にはみ出して置いていた。板材は樹種の種類ごと、同じ長さで分けてあり、板材の間に1寸位の桟を入れて乾燥させていた。堤防のところは高いので風が抜けて乾燥が早かった。(写真8)は加瀬野久志『滅びゆく機帆船』1986の90頁は「このようにして、ベンコウ(杉の板)を乾燥させている。」大日水産富島造船所の製材置場の写真で、左側から弁甲材、弁甲材、欅材、檜材が乾燥させているのが判る。木材をよく観察すると、1本の丸太材から板材に加工されたものがそれぞれまとめて、積まれているのが見られる。加瀬野氏はたびたび富島造船所を訪れて記録写真を撮影している。

写真8 大日水産富島造船所製材置場 船材の乾燥の工夫

写真8 大日水産富島造船所製材置場 船材の乾燥の工夫

9-1 広島県広島市西区草津港入港 (太田川放水路河口)

9-1 広島県広島市西区草津港入港 (太田川放水路河口)

9-2 船首飾りは丸十、ロープを止めるヤツガシラ

9-2 船首飾りは丸十、ロープを止めるヤツガシラ

9-3 右舷通路板張り、広島市冷蔵株式会社 (現在)

9-3 右舷通路板張り、広島市冷蔵株式会社 (現在)

9-4 明石型生船の特徴ある船首

9-4 明石型生船の特徴ある船首

常盛丸EH2-2860

愛媛県松山市二神島の矢野家所属の明石型生船、常盛丸の船名は矢野常一と商売が盛んになるという気持ちを込めて名付けられた。3隻の明石型生船を所有し、広島草津港の広島魚市場、糸崎港、松山の三津浜港の魚市場に魚を運んだ。昭和47年(1972年)兵庫県津名郡北淡町の大日水産富島造船所で進水。広島県広島市西区草津港の入港時(昭和50年代)。船首飾りは丸十

10-1 桟橋に接岸、防舷材帯鉄の錆びだれが著しい

10-1 桟橋に接岸、防舷材帯鉄の錆びだれが著しい

10-2 塗装整備された船体

10-2 塗装整備された船体

10-3 汚れで船首アンカーずれが観察できる

10-3 汚れで船首アンカーずれが観察できる

10-4 生間のサブタと排水ホース

10-4 生間のサブタと排水ホース

10-5 明石型生船の特徴ある艫廻り

10-5 明石型生船の特徴ある艫廻り