2.なぜ天草のマダコが選ばれたのか。

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 大日水産株式会社では昭和38年~昭和40年代頃は、大分県臼杵市柿の浦(タコは大きいが足切れが多い)、長崎県壱岐市郷ノ浦(泥地で生育し大きく皮が分厚い)、壱岐市印通寺(泥地、砂地で生育しタコが小さい)、長崎県松浦市星鹿鷹島、熊本県天草地域でマダコを集荷していたが、天草地域が一番漁獲量が豊富でまとめて供給することが出来た。さらに昭和35年(1960年)代になると、天草地域においても特定漁浦に対して、資金提供による特約関係を結ぶことによって、漁獲物の独占を行う権利を獲得する「浜買い」が行われるようになった。この方法は明治時代から淡路附近のマエの地域で行われており、昭和初期に活魚運搬船の動力化によって進出した瀬戸内海西部海域においても、漁獲物を確保するためにも、この浜の独占は絶対に必要なことであった。「内海西部(瀬戸内海西部)への進出は大体大正二、三年頃、淡路島富島の人々によって行われ、大阪魚市場資本により資金提供を受け、資金の前貸しによる特約関係、つまり権利金的に出資関係を結ぶことを(浜を買う)と呼ぶのであるが、或る浜が空いた時、つまり他人の特約関係が解消された時、手持資金を持たないと機敏に浜を買い得ないのである。従って浜を買わなければ安定した経営をつづけれなかった。・・・戦後は瀬戸内海海面に於いてもその資本を各地の漁協に貸付けることによって、各主要漁村と特約関係を結びその漁獲をも独占しようとする傾向が著しく表れて来た。(要約)」瀬戸内海総合研究會編『瀬戸内海総合研究会 村落総合調査報告第二輯 漁村の生活-岡山懸小島市下津井田ノ浦』岡山大学法文学部内瀬戸内海総合研究会1954(3)鮮魚運搬業で河野道博氏が述べられている。さらに『漁場用益形態の研究』「補論第3 瀬戸内海の活業運搬業」1961においても河野道博氏が「戦後は生産者を直接支配する傾向の強化されたことである。・・・直接漁業会に仕込みを行うこととなり、又内海の小規模経営の網主にも仕込んで今迄よりも一層直接的に各漁村を支配することとなった。又従来は大量生産地の商主によって、附近の小漁村の魚も集荷していたが、不可能となったため、今まで目こぼしされていたような小漁村にまで活魚運搬業者の経済的支配の手が及ぶようになった。・・・」と述べられている。

 まさしくこの論文が執筆された当時に大日水産株式会社は天草地域の浜買いを行っていた。すなわち大日水産株式会社はそれぞれの場所の活魚買取りの権利を資金の前貸しや、契約という方法で権利を前もって買うのである。「契約期間内は、他の活魚業者に漁獲した魚を売ることは出来ないのである。活魚業者に雇用される形と見ることもできる。一方、活魚業者は活魚運搬船(生船)を複数所有し、漁港の生簀に集められた漁獲物を円滑に集荷する必要があった。」

 大日水産株式会社資料目録(漁獲物契約書)の中にも天草地方で昭和33年頃(1958年頃)から生鱧、生蛸等の特定魚種の伝統的な買付方法としての浜買いが行われていたことが読みとれる。このことからも明石からの突然の大量依頼にも関わらず短期間に準備ができたのである。天草の各漁港とは大日水産株式会社の駐在員が漁協と契約し、生簀を設置し漁民が捕ってきた魚類やマダコを検量し、取引簿に記載し月末にまとめて代金を支払っていた。駐在員は活魚運搬船が集荷に来るまで魚やマダコを管理する役割を担っていた。

 異常低温によるマダコの被害は昭和11年(1936年)にもあったようで「昭和11年2月上旬のこと。ある日突如として厳しい寒波が襲来した。そして表面の水温が一夜のうちに5~6度、所によってはさらに大幅に低下したことがある。もちろん時節柄北西の季節風が作用して、海水の対流作用に拍車をかけ、急激に各地の水温が低下したというのがその原因である。魚達にとってはどうにかしのげそうな亜寒帯の水が、一夜のうちに寒帯の水に変えられたようなものであった。そのため、いたる所の地先で、クロダイ、ハマチ、マダイ、カレイ類、メバル等が死んで浮上したことはいうまでもないが、マダコがこれらとともにはなはだしく死んで浮上し、その後の上半期の漁業では、例年の漁獲高の一から二割より漁獲がなく、関係者一同が非常に心配したことがある。」と述べられている 井上喜平治『蛸の国』1977年148頁。また、刀禰勇太郎『蛸』1994年180頁には「・・・関係業者はびっくりして、県費補助8,000円を投じて、沿岸で蛸の繁殖・保護を大規模に行なったところ、翌年にはその効果が現われ、平年以上の増殖をみた。林崎漁協の調べでも、昭和十一年には87,000貫の蛸漁獲高が、翌一二年には178,000貫と倍増しているのが何よりの証拠であろう。」とその顛末を記録している。

 さらに『あかし本 時のまちを創る 海のまちに生きる』2017年141頁には昭和59年(1984年)にも低水温で被害を受け、天草から親ダコを10トン購入して放流。産卵用タコつぼ6千個も海へ投入した。」が記載されており、これまで記録されているものでも昭和11年(1936年)、昭和38年(1963年)、昭和59年(1984年)に寒波によるマダコ被害があったことがわかる。

 明石は全国的にその名が知られる「明石ダコ」で有名であるが、明石市林崎、魚住、谷八木、中八木、江井ケ島などでは付近で産出する良質の粘土で製造するタコツボ製造業者(窯元)があったが、昭和38年の三八豪雪でタコが絶滅したためタコツボ漁に従事する漁師が減り、タコツボ製造業は衰退していった。

 ではこの件について、天草ではどのように伝えられているだろうか。熊本県天草諸島天草下島の南端、天草市牛深の牛深水産株式会社『牛深便り』には、「明石タコ=天草牛深のタコ?タコといえば明石のタコが有名ですが、実は明石のタコは天草牛草のタコが起源なのです。明石のタコは昭和38年の海水の異常低温冷害で一度全滅してるんです。タコは、通常、5度以上でしか生きられません。このとき海水温度は4度まで下がってしまい、明石のタコは死滅。そんなときに明石を救ったのが、天草牛深のタコなんです!はるばる熊本から3万7千匹、10トン以上のメスダコを明石まで運び放流!その結果、明石のタコは、今日の全盛となっているのです。つまり、現在生息している明石のタコは天草牛深起源のタコということになります。明石海峡の激しい海流で揉まれて育つ明石のタコは、足が太く短く、弾力性があると言われていますが、天草牛深も負けていません。そりゃそうです。ルーツを辿れば同じタコですから・・・!」と掲載されている。また、国道324線沿いの有明区間「天草ありあけ街道」『ありあけタコ入道』の説明板には「・・・また、1963(昭和38年)に、兵庫県明石海峡で大冷害が起こり、明石海峡のタコがほとんど死滅するほどの被害にあった際に、当時の天草ありあけタコが放流され、危機を救ったという史実もあります。」と説明されている。

 昭和40年(1965年)5月から10月まで、第一住吉丸に乗船し五島列島・天草廻りで蛸、鱧等を実際に集荷した日野賀生氏によると、天草地域による蛸の集荷は満越(熊本県天草市大矢野町中)に駐在員を常駐させ集荷基地の役割を担っていた。集荷作業は各漁港に設置してある生簀を廻り活魚運搬船で第4図、上島の大矢野漁港、松楠漁港・樋合、須子、有明町赤崎、有明町上津浦、有明町小島子を集めた後、上島と下島の間にある本渡瀬戸を通過し天草諸島海域に入る。天草では樋ノ島、御所浦、大多尾、上伊唐、下伊唐、薄井、宮野河内漁協、白瀬などで蛸を集荷した後、長島海峡を通過し天草灘周りで瀬戸内海航路を経由し神戸中央卸売市場や大阪中央卸売市場で出荷していた。このことからも昭和38年(1963年)に天草から明石に運ばれたタコが全て天草牛深起源のタコとは限らない。また大日水産株式会社と牛深との契約書も現在のところ見つかっていないが、当時の事情を知るタコツボ漁師から聞取りが出来たので「明石タコの再生に関する聞取り」として報告する。

第4図 天草諸島周辺の活蛸集荷場所

第4図 天草諸島周辺の活蛸集荷場所