4.蛸の集荷と輸送

117 ~ 121

 蛸の集荷については「生船写真帖132頁」、「蛸漁は、4月~9月迄が夏蛸として漁獲される。淡路島、岡山県下津井地方では、秋蛸が10月~12月中旬迄、夏蛸の半量位獲れる。蛸壺漁は、原則的に大汐時の満ちてくる時に壺を繰り上げないと量が獲れない。小汐時は、極端にとれない。(満ち汐でも)。干汐時は全く壺の中に入っていない。逆に、蛸の1本釣りは、小汐時が好漁であるが、総じて小蛸が多い。又、蛸の内臓に針が刺される事もあって、上がり(死ぬ)も少し増える。蛸壺漁船より、蛸を検量、手網(タモ)、衡だまとも云う。秤量し、蛸団平に移す時が、細心の注意が必要である。即ち、蛸団平の上に一名が乗り、活簀ぶたの上に一度蛸を広げ、からまった蛸を一匹ずつさばいて活簀内に入れる必要がある。掛けだまごと一度、活簀内に投入すると、直径約50cm位の蛸ボール状になって、からみあったまま塊が解放されないので、その蛸ボールは呼吸できずに、全部窒息死する。蛸積み込み時も一生間に、約1,000kgの蛸を積み込みする。蛸団平一隻に活蛸約150kg収容してある。一生間分、蛸団平6隻~7隻分クレーンウィンチで水深30cmまでまきあげ、蛸団平内に2名が入って、大丸カゴに拾い入れて、団平上に上げる。それを生間内に、一匹ずつさばいて入れる。時間(荷役作業)は長くかかるので、生間内は、蛸がはき出したスミで真黒になる。又、酸欠も危険なので、生簀場をはなれ港外に出て、全速力で、その生間にポンプホースを入れて排水しながら舵輪を面舵一杯とる、船体は左舷に傾く、次に取り舵一杯とる、船は右舷に傾く、船体をローリングさせることによって、生間内の換水を急ぐ、海水が澄んで来たら、再度、蛸団平に接舷し、次の蛸団平荷役をくり返す。その浜を出港したら、その生の間の海水が澄み切るまでポンプ排水と転舵をくり返し、箱眼鏡でのぞいて、蛸ボールができていないかと検査し、蛸ボールが存在したら竹棒で水面まで引きあげ、すばやく、さばいてやらねばならぬ。蛸は、自己専有場所確保意識が強いのである。蛸用生間には、蛸専用の蛸簀が必要である。蛸積み込み時は、大中ダコと小ダコとをわけて別々の生間に入れる必要がある。蛸同士の争いがおこると、必ず小ダコが死ぬ。」と日野逸夫氏が実体験を報告している。

 次にその後の聞取りで新たに分った蛸団平の事柄について記録する。蛸団平は漁具のように既製品ではなく、大日水産株式会社では蛸団平は造っておらず、富島では大崎造船所、岩屋の東根造船所、大徳造船所が造っていた。厚さ一寸(3.03cm)の杉板材を長方形の箱型に組合せたもので、長さ3m、幅2m、深さは中に入って作業する場合に首が出る(潜らないで呼吸ができる)深さ1.5mのものが一般的であったが、地域によって蛸団平に大小の大きさに違いのものがあった。天板には蛸を出し入れを行うスライドする蓋があり、海水の侵入を防ぐため印籠式となっていた。側板4面、底板には新鮮な海水を出入りさせ潮通しを良くし、酸素を蛸に絶えず供給する透かし穴(換水穴)がある。穴は直接に板に開けられているわけでなく、板の柾目面(木端面)に長さ15cm、深さ0.5cm~0.7cmの切込み(エグリ)が3cm~5cm間隔で作り出され、その上に加工されていない板材を積み上げることで、連続した透かし穴(換水穴)が作り出されている。穴を開けるというよりは削り込んで作り出す、エグリの分だけ穴になるのである(第2図)。蛸は軟骨の頭蓋骨で出来ているため、1cm以上の隙間があると逃出すことが出来る。隙間をそれ以上に広くすることは危険である。蛸団平は組立式になっており四隅を長尺の鋼鉄ボードによって締付けていた。必要に応じて解体し活魚運搬船の後部デッキ(運動デッキ)に搭載して運搬し現地で組立てた。丈夫に作られて重量があり海面に沈めると自重で沈んだが、天板にある蓋近くまで沈める必要があり浮力がある間は、人頭大の自然石を天板に置いて調整した。浮力を失い沈みが深くなると浜に引揚げて天日干しをし、透かし穴に詰った海藻の掃除していた。使用するときは蛸団平の中に木の枝を根元でまとめて放り込むと、蛸が止り木として利用し蛸同士が喧嘩をしなかった(第3図)。海水によって腐食しないように内外面にコールタールが全体に黒く塗られていた。

第2図 蛸団平略図(竹垣義治氏作成を一部改変)

第2図 蛸団平略図(竹垣義治氏作成を一部改変)

第3図 蛸止り木略図(戸髙源之助氏作成)

第3図 蛸止り木略図(戸髙源之助氏作成)

 昭和40年代(1965年代)になると、蛸の需要が増大し漁獲量も益々増えたことから漁港に設置した蛸団平の数だけでは対応出来なくなってきた。また漁網の素材が麻から化学繊維(ナイロン、クレモラ)になり従来の手編み網から、機械編みの網が普及するようになり、さらにハマチ養殖技術で開発された小割型生簀が普及したことから、漁港に設置する生簀を蛸団平から小割型生簀に変えた。蛸用の小割型生簀は、縦5m、横5m、深さ5mの立方体で網目の細かい網(網の繊維が柔らかくなり蛸が網ズレしない)が使用されていた。小割型生簀の中には、葉のついた木枝を束にしてロープで逆さに吊るし蛸の止り木としていた。枝束は生簀の上層、中層、下層にそれぞれ分けて吊るされ、蛸が何処にいても止れるようになっていた。この技術は蛸の生態に対応した伝統的な技術である。

写真5 生間中仕切に設置された組立式タコ巣を解体し引き上げる 昭和61年4月17日

写真5 生間中仕切に設置された組立式タコ巣を解体し引き上げる 昭和61年4月17日

写真6 組立式タコ巣に張付いたタコを引離す

写真6 組立式タコ巣に張付いたタコを引離す

写真7 活ダコの取引 左側の生船甲板に整理された組立式タコ巣と胴丸カゴ

写真7 活ダコの取引 左側の生船甲板に整理された組立式タコ巣と胴丸カゴ

 蛸を活魚運搬船で輸送する方法については、「蛸を輸送するには、取り外し可能な蛸が入るための巣を設置していた。タコ巣とソデ巣が有り、タコ巣は中仕切り板側の上下にある小さな穴とマツラにロープを通して設置し、ソデ巣は生間の前部の戸立と後部の戸立に釘で止めており、生間には外板を除く三方向にタコ巣が設置されていた。一カ所のタコ巣の高さは4寸(12cm)ほどであり、奥行きは1尺(30cm)あまりであった。ソデ巣は縦4尺~5尺(120cm~150cm)あまり、横3.3尺(100cm)あまりで単行本を入れる本棚のようであった。タコ巣は水面ギリギリまで高さがあった。蛸が岩礁などに隠れる習性を利用した運搬方法である。船長は、魚種と数量を把握し、どの生間にどの魚種を積み込むかの配置を決めていた。蛸を積まない時はタコの巣を、ブリッジ後方の運動デッキに積んでいた。蛸の多くなる時期は(5~8月)は前方デッキにも積んでいた。」写真帖55頁で日野賀生氏が報告している。蛸団平については漁港で繋留されたものや、浜に引揚げられ乾燥しているものを実際に見ることもでき、幾つかの書籍に写真が掲載記録されているが、活魚運搬船の生間内に活蛸の運搬用に設置される蛸巣については、その報告事例がない。

 次に日野賀生氏の聞取りによって新たに語られたことを記録する。タコ巣やソデ巣は活魚運搬船の設備品として常に船に積んでおり、蛸の漁獲時期である春から夏にかけては生間4間8艙分、蛸が少ない秋から冬には1間2艙分を積んでいた。解体されたタコ巣は後部デッキ(運動デッキ)や右舷側通路に積込まれていた(左舷側通路は人が通る通路になっていた)。タコ巣やソデ巣は造船所で船大工が雑木(決まった木材はなかった)で生間中仕切や戸立の幅に合せて製作していた。同業他社でも蛸の運搬を行う業者は同様のタコ巣を使用していた(写真7)。タコ巣は戦前にもあったが、いつ頃から使い始めたかは分らない。昔は天然魚を主に運んでおり、蛸を運び始めたのは新しい。誰がどのようにして考え出したか分らないが、蛸の生態を利用した技術である。タコ巣は運動会で使うムカデ競争のゲタのような形状をしており(写真6)、幅1尺(30cm)板材に、板状の桟が4寸(12cm)間隔で打付けられているもので、これを中仕切板に沿って積上げることによって4寸角(12cm×12cm)の入口がある、深さ1尺(30cm)の箱状の空間ができる。この板材を中仕切板に沿って喫水面まで積上げると蛸が入る多数の空間ができる(生間の深さとも関係するが15段で約180cmの高さになる)。板材の右端と左端は1段目から15段目までをロープで一括りにして緊結し、中仕切上端に開けられた穴と中仕切板下端に開けられた、直径2~3cmの丸穴を通して反対側のタコ巣とロープで固定される。腐食防止のためコールタールが全面に塗られていた。タコ巣は巣の奥に吸着している蛸を取除きながら毎回解体し(写真5)、次に使用するために運動デッキで乾燥させていた。

 ソデ巣は、文庫本(15cm)を入れる本棚のような形状をしており、最初から本箱の形に組立てられていた。戸立(生間間仕切り板)に直接、丸釘(洋釘)で四隅を止めていた。ソデ巣にもコールタールが全面に塗られ、春から夏にかけての蛸輸送の繁盛な時期は戸立に打付けたままにしていた。

 それでは実際に活魚運搬船の生間にどれだけの蛸を積むことが出来たのだろうか。日野賀生氏の乗船体験「生船写真帖」49頁によると、「昭和40年(1965年)5月から10月頃までの約半年間、第一住吉丸(49.98屯、長さ25.84m、幅4.49m、深さ2.00m、昭和34年2月27日進水)に乗船、初航海は5月14日淡路島富島港を出港し、五島・天草廻りで20日に神戸港で水揚げした。同年6月7日から14日の天草からの積荷は、蛸3,015kg、はも1,535kg、紋甲いか240kg、たい720kgであった。」と記録されている。第一住吉丸は、5間10艙の生間がある約50屯の自社船で、熊本県天草で蛸等を集荷して神戸中央卸売場で水揚げしている。どの生間にどの漁獲物をどれだけ積むかは船長が決めていた。日野賀生氏の記憶によると、ブリッジに近い第1生間には鯛を積み、第2生間(2番取舵・面舵)から第4生間(4番取舵・面舵)に蛸3,015kgを積んでおり、単純計算では生間1ヵ所で1,000kgの蛸を積んでいたことになる。蛸の大きさは分からないが、仮に1杯500gのマダコと仮定すると生間1ヵ所で2,000杯×3ヵ所で6,000杯の蛸を積んでいたと考えられる。なお、天草の蛸は小ぶりであると言われるのでその数はさらに多いと思われる。これだけの大量の蛸を輸送するには各生間の栓口を全開し酸素補給を行う必要があった。