令和5年11月15日、熊本県天草市牛深町(須□)漁港内において、当時の事情を知る牛深地区のタコツボ漁師から聞取りを行った。
「昭和38年(1963年)兵庫県明石市で発生したタコの絶減を知り、タコツボ漁師仲間では助けようとの総意のもと、漁獲される販売できない小さな魚体を集め牛深港に入港した大きな運搬船(活魚運搬船)に積み替え明石方面に送り出した。以後業者間では再生した明石のタコは牛深のタコが先祖と代々語り継がれている。」
昭和40年(1965年)当時、牛深地区には30ほどのタコツボ漁業者があり(旧トン数)6tから8tの小型木造船を使用し、漁具は藁縄で繫げたタコツボ約1500個で操業していた。当時の漁獲は異常なまでに小型の魚体が多く販売できないものが大半だったことを鮮明に覚えている。
業者間では明石のタコが全減した模様で「同じタコ漁師として気の毒だ。何とかしてやりたい」との声が上がり、販売できない小型の魚体(300g未満)を現地に送れないものか業者間で協議した(漁協が中に入ったのか不明)が、後日、岡一区の中村石油岸壁に接岸した大型活魚運搬船(塗装色・船質不明)の船艙に、操業船ごとに小さな魚体を持ち寄り積み込んだ(写真8)。
当時の牛深地区以外では経営個体数が少なく使用する船舶は大きくても3t~4tと記憶しており、使用する漁具も半数程度であることら漁獲量も少なく運搬船は天草沿岸での積み合わせを目的に生産地に寄港したのではないか。
牛深のタコツボ漁業者は提供数量が多かったため「明石のタコの先祖は牛深」と代々語り継いでいると思う。なお、当時は「困ったときはお互い様との相互扶助の精神で無償提供したが、当時を知るのは私一人になった。」と語っている。