私の活魚船史-戸髙水産の活魚運搬船(生船)の系譜と運用-

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(有)戸髙水産代表取締役 戸髙源之助

写真1 第六盛漁丸(初代) 昭和40年(1965年)8月 中学校2年夏の戸髙源之助 宿毛市~広島航海

写真1 第六盛漁丸(初代) 昭和40年(1965年)8月 中学校2年夏の戸髙源之助 宿毛市~広島航海

 物心ついた頃から、船が遊び場で魚が遊び相手だった。自然に仕事も手伝うようになっていました(写真1)。私が小学校4年のとき、父がもっと大きな船を造ると海技免状がいるので2ケ月ほどの講習を受けた。ちょうど夏休みだったので私も乗船し、19才の叔父が船長、中学校を出たばかりの兄と、私も一応頭数に入れて3人で松山行きの折返し航海をしていた。その頃は養殖魚はなく漁師が獲った天然魚を買い集めて松山市場へ、昭和35年(1960年)に進水した第1盛漁丸(活魚運搬船第1号)は長さ32尺、幅7尺、7~8t、ヤンマーディーゼルエンジン30馬力で(写真2)、満船で上りは13時間ほど、佐多岬を過ぎると松山まで北東を一直線、兄は眠くなると「ほらこの針で走れと言って」自分はかたわらで眠ってしまう。松山市の空明りが見えてくると不安の中でほっとしたものです。当時の船は遠隔操作ではなく1人機関室に入って機関操作を担当。機関室とブリッチの間には小さな小窓があるだけで戸立によって仕切られ、チン、ベルの鐘の合図でエンジンの操作を伝えていた。「チン」と1回鳴ると前進、また1回鳴るとストップ(中立)、「チン・チン」と2回鳴ると後進、「チン・チン・チン」と3回連打すると、「馬力上げ!」つまり全速、これですべて伝達の用は足りてしまう。私は入港前になると機関室に入って合図のチンを待つ、機関室の横入口から船の行き足を見ながら後進の回転数を加減していた。他にもたくさんの船が入って来て良い荷上場を確保しようと競争でした。私が機関室から出ていくと隣の船の人達は子供が機関士をやっていると、びっくりしたような様子で見ていました。魚揚げが終って片づけがすむと、船を渡り歩いて他の船を見に行ったり大きい船を見ると「こんな船に乗ってみたいなあ~」と思ったものです。

写真2 第1盛漁丸 昭和35年(1960年)進水 活魚運搬船第1号

写真2 第1盛漁丸 昭和35年(1960年)進水 活魚運搬船第1号

写真3 第五盛漁丸 昭和37年(1962年)12月建造

写真3 第五盛漁丸 昭和37年(1962年)12月建造

 昭和37年12月(1962年)に第五盛漁丸(写真3)が出来上がり進水です。長さ39尺、幅9尺、14~15t、主機はヤンマーディーゼルエンジン45馬力で新品エンジンの香りと、三気筒の連続音は今でも忘れない。商売も軌道にのって積荷も増え、広島にも販路を伸ばしていくとまた船が小さくなり、また新船を造ろうと父が言い出した。今度はもう一間長くして、主機をディーゼルエンジン60馬力にしょうと、今まで生間は3間6艙だったのを4間8艙にする。長さは43尺、幅9尺、16t、昭和39年3月(1964年)に第六盛漁丸(初代)を建造した(写真4)。私は小学校を卒業し中学校に入る前で、第五盛漁丸と第六盛漁丸(初代)の2隻体制で人も雇い入れて、兄は仲取り船(小さな生間船)に乗って集荷に走り廻った。私も学校が終ったり休みになったりすると船に乗ったり、兄の加勢をしたりと大忙しで、この頃になると小規模ながら養殖もはじまり積荷も増え、「また船が小さくなったなあ」と子供ながら思うようになったものです。

写真4 第六盛漁丸(初代) 昭和39年(1964年)3月建造

写真4 第六盛漁丸(初代) 昭和39年(1964年)3月建造

 当時、大分県佐伯市蒲江には70尺60t級の明石型生船2隻所有する(有)天野水産があり、阪神方面に走らせ、蒲江で儲ける業者の代表格でもありました。冬の北西風の時化の中、船首から荒波に突っ込み波をすくい上げながら走っていると、明石型生船70尺の第二十一大正丸がすぐ近くをしぶきを被りながら追い越して行く「すごいなあ!」と憧れの目で眺めていたものです。そのころ父の思いの中にも戸髙水産も明石型生船を所有したいと思いがあったようだった。

 その頃、宮崎県東臼杵郡北浦町宮之浦(現延岡市)北浦港の大日水産集荷魚問屋である浜田梅三郎氏より「造るんならうちの造船所で造らんか」と大日水産富島造船所社長日野顕徳氏を紹介された。明石型生船を5~6隻持ち、全国各浜に集荷魚問屋をかまえ、自社の船をメンテナンスする上架装置を持ち造船所もあるというとてつもない大きな会社で、念願の明石型生船の建造が始まりました。私が中学校3年生の昭和41年(1966年)です。第八盛漁丸(初代)は長さ54尺、幅10.5尺、19.9トン、三菱ダイヤディーゼル4気筒135馬力で(写真5)、「1,170万円もするんじあ」と父から聞いていました。第五盛漁丸が昭和37年(1962年)地元伊藤造船所250万円、第六盛漁丸(初代)が昭和39年(1964年)伊藤造船所350万円ですから、当時の1,170万円は我家にとって一大出費だったと思います。進水は年末になるのでなんとかして年末売りに間に合わせようと造船所に完成をせかせました。12月になって私も父に連れられ船の受け取りに富島造船所に、学校は人より早い冬休み、先生から「お前、期末試験はどうするんか?」と言われ「先生俺が行かんと新船が帰れん、帰ってからやるから、俺の分は残しちょってくれ」と言ったら、先生は口をポカンとしてけしからん奴じゃという顔をしていた。

 関西汽船に乗って別府から神戸へ、初めての淡路島富島造船所入り、船体は出来上がりペンキも塗られ、その姿に感動したものです。仕事は丁寧で歴史のある船大工の技を感じました。材料は高価な欅材をふんだんに使い、トモデッキはふしのない柾目のヒノキしかも赤身をとり、木材外側の白太のところは一斉使わない。外板の弁甲材も全て赤身だけで船大工の世界では、白太を取り除くことを木端バライと言うそうですが、木端バライすると材の6割か7割しか使えないが腐らない、船価が高くなるわけだ。地方の造船所では材をいっぱい、いっぱい使い皮が付いてなければいいと言う位、ギリギリまで使う。船を造る注文が入ってから材料の準備をするので乾燥が不十分で船大工がなんぼ丁寧に良い仕事をしてもすいてしまう。この富島造船所では大きな材を山のように積み上げ乾燥させて、いつどんな船の注文を受けてもいい状態、このスケールの大きさにも感動でした。

 これ以後、長い付き合いになる船大工棟梁の宗和豊松さんとの出会いもよく覚えています。私が小デッキから覗いた時、室内の仕上げの最中で「おー!来たなあ!」と大きな声をかけてくれた。中学生の息子が来るんだと父から聞いていたらしく「源よー、源よー」とよく声をかけてくれた。仕事が出来る素晴らしい人で、この出合いは戸髙水産の最後の明石型生船となる第拾壱盛漁丸とつながる長い付き合いの始まりでもあった。艤装も進み、機関室には鉄工所が入り、電気屋が電線を引きまわし大混雑、私は父から機関の操作や点検をよくマスターしておくように言われていたので、帰ったら他の人にも教えられるようにと一生懸命でした。年末売りに間に合わせようと船大工の仕事が残っていたが、蒲江に帰って作業してもらおうと材料を積んで出港する。私は初めての瀬戸内海航路でしたが、海図を見ながら父と交代に舵を取る。途中、愛媛県松山市三津浜港により市場の人達に新船披露する。蒲江に朝帰るように時間調整して出港、夜明け鶴見崎を過ぎると何本も竹竿を立て、ロープに何十枚もお祝いにもらっていた旗をくくりつけて飾り、さあ蒲江港に入港、村田英雄の王将のレコードを拡声器でうならせ港内をめぐる。父にとって最高の時だったと思う。

写真5 第八盛漁丸(初代) 昭和41年(1966年)12月建造

写真5 第八盛漁丸(初代) 昭和41年(1966年)12月建造

 新船披露もそこそこに年末売りに間に合わせようと道具をそろえ準備に大忙し、そのころは養殖も始めていて天然物の魚が少ない時には、いつでも積めるように品揃えできていたので、積めるだけ積んで初上り、新船の乗りまえを試すような北西風の強い時化の日で、ブリッジ脇の通路の扇が残工事で取り付けてなくてオモテからすくい上げた波しぶきがそのままトモまで吹き抜けていた。豊後水道に浮かぶ保戸島の潮騒の中でオモテが波の中に突込む様子を見ていて兄が「この船が1,170万円じゃって!」と言ったのを覚えている。今までの船は材料が小さく、その分船体が軽いしオモテ開きをつくっているから波に乗りやすい。台付きで幅を広げているから、いくら傾いても台が受けてくれるという安心感があったが、明石型生船はオモテを波の中に刺し込んでいくという表現が相応しいくらい突っ込んではオモテを持上げ、そのうちデッキに溜まった海水がはけ切れず益々オモテを突っ込むようになり、スローにして行き足をおとしデッキの海水のはけるのを待って、また波とケンカした。兄が叫んだ「この船が1,170万円かあ!」の意味がわかる。これが新船初上りであった。「この船は前の船に比べて時化に乗れんなあ」と思った。波の中ブリッジで1人舵を握っていた父もそう思ったと思う。

写真6 第11盛漁丸(初代) 昭和43年(1968年)3月建造 奥は第八盛漁丸(初代)

写真6 第11盛漁丸(初代) 昭和43年(1968年)3月建造 奥は第八盛漁丸(初代)

 新船でこの状態では古くなって船材が海水を含んで重くなれば、まだまだオモテを突っ込むようになる。マストの立っている戸立を当初の予定よりオモテにずらして付けたのが原因だった。つまり生間が長くなりその分、船首部の浮力が少なくなり船首が沈む、これを「へをさす」と言っていた。魚は積めるが時化になると大変だ。養殖も拡大し、また船が小さくなったのでまた船を造ると父が言い出した、昭和43年(1968年)、第11盛漁丸(初代)、長さ58尺、幅13尺、30トン、ヤンマーディーゼルエンジン160馬力(写真6)、船価1,700万円、私は高校2年生、この時も学校を休んで富島造船所へ。この前は急がせてしまい仕事もそこそこで不備な所も多かったので、今度は時間がゆっくりあるので、至れり尽くせりに納得いくまでにやってもらった。3月母港への寄港は日の出とともに大漁祝旗を飾って、2年たらずでまた明石型の新船を下ろして帰ってくる盛漁丸の勢いに地元の人達は目を見張ったと思う。

写真7 第16盛漁丸 昭和49年(1974年)<br>元香川船籍の徳吉丸

写真7 第16盛漁丸 昭和49年(1974年)
元香川船籍の徳吉丸

 2隻の船を常時走らせ事業拡大、私も高校を卒業すると中学3年生のときに造った第八盛漁丸(初代)の船長をまかされる。その夏建造2年おちの長さ65尺、幅13尺、ヤンマーディーゼル160馬力、特徴的な鉄製ブリッジの香川県大川郡引田町の徳吉丸を1,500万円で買入、唐草板に丸徳マークがあったのをそこだけ刳り抜いて、山戸のマークに付け替えた第16盛漁丸(写真7)として運用、これで第11盛漁丸(初代)と第16盛漁丸の二隻体制になった。

 昭和47年(1972年)第18盛漁丸建造、長さ76尺、幅14尺、65トン、主機はスーパーターボ付き6気筒370馬力ヤンマーディーゼル、今まで生間の木栓は潜って栓口にはめ込んでいたが、それを自動で開閉する空気圧駆動式開閉弁を装備した。開閉弁装備だけで1,000万円かかると言っていた。生船の一番大変な仕事である潜って木栓をしなくてよくなり革命的だった。いくら寒くても夜が明ける前、潜って木栓をする。イカを上げた後などイカ墨で真っ黒に濁り潜って自分の手も見えないので、ほとんど感と手探りではめる。タコの場合タコがいっぱい入っている中で木栓をするので、うようよいるタコをかき分けながら木栓をはめる。木栓の数は全部で100ヶ程で、愛媛県松山市三津浜港は潮通しが悪く透明度がなくドブ臭い所で、それを毎航海ごとにしていた。今考えると人間のする仕事じゃない。それをブリッジにある開閉弁操作盤で、各生間ごとに開閉できるので生船にとっては画期的でした。昭和47年12月(1972年)に進水、370馬力エンジン過給機の高速回転するキーンという金属音は初めて聞く気持ちいいものでした。新船の第18盛漁丸は叔父が船長、私はまだ木栓の第11盛漁丸(初代)、第18盛漁丸が出来ると第16盛漁丸は売却、昭和46年(1971年)夏、第11盛漁丸(初代)の継ぎ伸ばし工事(積量変更工事)を富島造船所で行う。長さ58尺を67尺に生間4間8艙を5間10艙に、工費は1,100万円程だったと思う。木栓もエンジンもそのままに、船が長くなると乗り前が良くなり、スピードは速くなる。昭和49年(1974年)に第六盛漁丸を発注、長さ76尺、幅14.5尺、75トン、主機二イガタディーゼルエンジン720馬力、空気圧駆動式開閉弁を備える。昭和43年に造った第11盛漁丸(初代)は、昭和53年(1978年)長崎県長崎市戸石で活魚運搬業を営む臼井家に売却(後の第十一泰栄丸)、新船の第六盛漁丸と第18盛漁丸でフル稼働する。売り上げは15億円を超えていた。

 昭和51年(1976年)の年が開けると養殖場の采配と仕入れを一手にやっていた兄が体調不良で検査を受け血液のガンで余命半年と告げられる。一家は悲しみにうちひしがれた。兄は計算能力がずば抜け事業欲旺盛で、我が身の余命を悟りながら絶えず商売のことを気にかけ、また船を造ろうという気運になっていたので「どうせ造るんなら大きな船を造れ、また小さくなると」と言っていた。病院の見立てどうり治ることはできず無言の帰宅となった。30歳だった。我家の歴史にとって忘れることのできない悲しい出来事でした。大黒柱の長男に先立たれ悲しみの中にありながら父の事業欲は衰えることはなく、昭和51年(1976年)第八盛漁丸の建造にかかる。長さ88尺、幅15.5尺、91トン、ニイガタディーゼルエンジン600馬力、空気圧駆動式開閉弁120個所、船価9,000万円、昭和52年3月(1977年)に進水。私は新船の船長もやりながら兄がやっていた買い付けも廻り超多忙の日々でした。第18盛漁丸、第六盛漁丸、第八盛漁丸の3隻体制となり従業員も40人を超えていた。

写真8 第八盛漁丸 昭和56年(1981年)増屯改修 (積量変更工事)実施

写真8 第八盛漁丸 昭和56年(1981年)増屯改修 (積量変更工事)実施

 昭和53年6月(1978年)に第六盛漁丸沈没という大きな事故が起きる。満船で阪神に向け航行中に霧の中、備讃瀬戸大槌島付近で400tの鋼船に胴中を突っ切られ沈没、乗員1名が犠牲となる悲惨な事故だった。第六盛漁丸を失い2隻になると、これじゃ商売にならんと新船の建造にかかる。そのころ富島造船所はもう新造船の建造はほとんどなくなり、細々と自社船の修理や養殖船を造っていたくらいで、船大工もかなり少なくなってはいたが久しぶりに99屯型活魚船建造にわいていた。昭和55年4月(1980年)長さ29.90m、幅5.15m、深さ2.10m、99.15t(99屯型)、空気圧駆動式開閉弁130個所、6気筒800馬力ディーゼルエンジン、船価11,700万円の第拾壱盛漁丸(写真9)を進水。もうそのころは200t、300tの鋼船の活魚運搬船もかなり就航していて木造の明石型生船の建造は時代遅れの感もあったが、これまでの成り行きの延長で建造に取りかかった。父も木船を造る最後になるだろうと言っていた。これまで何隻も造り修繕もしてきているので、あれこれとかなり注文を付けていきました。水押しは高くして少し前に倒すように、船尾の廻り型の囲い部分を広くとるように、また船尾をしぼらずに広くとるようにとか、宗和豊松棟梁は使う側の意見をよく聞いてくれ出来上がりは満足いくものでした。昭和55年4月の進水か第18盛漁丸、第八盛漁丸、第拾壱盛漁丸の3隻フル稼働、売り上げは25億円に達していました。

写真9 第拾壱盛漁丸 昭和55年(1980年)4月建造

写真9 第拾壱盛漁丸 昭和55年(1980年)4月建造

写真10 救助した2人と家族、乗組員一同(右側2人は先生) 昭和58年(1983年)1月

写真10 救助した2人と家族、乗組員一同(右側2人は先生) 昭和58年(1983年)1月

 昭和58年1月8日(1983年)昼過ぎ初上がりからの帰途中、9日午後1時20分頃、愛媛県西宇和郡三崎町の佐多岬で甲板員の古田義勝がイカダに子供2人がつかまって大波の中を流されているのを発見、古田の大声に私もとび起き総員起こしのベルを鳴らして助け上げる準備にかかる。「助けるどぉ~、ガンバレェ~」と声をかけながら、本船を子供達のイカダの風下側に付けたが強風に流されイカダからはなれ、これじゃだめだと急旋回して本船をイカダの風上側に操船、佐多岬の岩礁が近く失敗は許されない。真横から風波を受けながらイカダの上に本船が被るようになって、子供達を引き上げると全速力で岩礁から離れる。子供達は寒さで体が震え硬くなっていたので着ているものは切破って脱がせ、何枚も重ね着をさせて毛布を巻き、布団を重ねて手を尽くして温めた。助け上げるとすぐ本社に電話を入れ、子供2人を助けたことを告げると、大分県東国東郡国東町の中学2年生と小学6年生の少年2人がイカダに乗って行方不明になっているので海上保安庁が捜索しているとニュースを見て知っていた。その子供だ、海上保安庁に連絡を頼んだ。しばらくすると大分海上保安庁から着電があり助け上げたことを報告した。巡視船2隻も全速で近づいてきた、上空にはヘリコプターも飛んでおり、この体制で捜索していても発見出来なかったんか?と思ったものです。となりを並航する巡視艇とは直接電話連絡がとれず大分海上保安部と中継で連絡をとり合う。どこかで子供達を移乗させたいがこの時化の中では無理だ。私は大分市の佐賀関漁港を指定した、北西の強風で横たくりになりながら急いだ、もちろん両脇に巡視船、佐賀関まで1時間ちょっとその間に子供達の顔色もよくなり話も出来るようになった、ラーメンも食べた、もう大丈夫だ!この子供達の話によると何隻かの船が通り過ぎ手を振ったが廻ってきてくれなかった。この船が廻ってきてくれて助かったと思ったと。佐賀関漁港で巡視艇に移乗させ、皆ほっとして帰途につく。テレビで見ていると2人の子供が助けられたニュースを速報でやっていた。午後5時のトップニュースでは大分港の保安庁桟橋の巡視船から保安部員におぶされ上陸する子供達の姿が放映されていた。つい先ほどこの船から巡視艇に移るときは自力で歩かせたのに、いかにも自分達が救助したかというような場面であった。この縁で1人の子供の一家が戸髙水産の寮に住み込み、両親が働くようになり助けた子供も中学を卒業すると助けられた第拾壱盛漁丸の乗組員となり、数年後に機関長の海技免状も取得して、縁あって蒲江の人と結婚し2人の子供をもうけ現在に至る。これが私が30才のとき人を助けた時の一部終始である。この顛末については昭和58年(1983年)1月11日付讀賣新聞に掲載されている(写真10)。

 昭和56年(1981年)に第八盛漁丸をエンジンはそのままに88尺を96尺に継ぎ伸ばし生間5間10艙から6間12艙の(積量変更)99屯型の船に(写真8)、第18盛漁丸80t、第八盛漁丸99t、第拾壱盛漁丸99tの3隻体制(写真11)でフル稼働する。昭和53年(1978年)に富島造船所で進水した、鹿児島県鹿児市のマルサ水産株式会社の第八大丸(99屯型)も進水後数年使っていたが、近頃はずっーと港内に停めていたので安く買って来て上架してみたら、船底は船虫が食い放題でボロボロ、使い物にはならんと解体する。良材は使えるように丁寧に取外して倉庫で保管し、第18盛漁丸の修理用材に使用する。商売もしながら船も乗りながら、船大工仕事もして船を絶えずいじっていた。

 第拾壱盛漁丸も進水後20年近くなると傷みがひどくなり船体も弱ってきたので、まだ第八盛漁丸や第18盛漁丸が元気で働いている内に、大修理をしてこの船一隻でも出来るだけ永く将来まで残しておこうと大修繕を決意する。まず用材の準備からで外板材は近くの山師が大杉を伐採している所に行き合わせて、現地で出来るだけ長く玉切りし製材所に、カジキの下マツラやツナギマツラは曲がり材の多い山を見て歩き、出材条件がわるいところは型板を当ててチェンソーで出来るだけ軽く小さくして出したりした。ある時は防舷材用の松を出来るだけ長く取り重機が入らないので、従業員総動員で引っ張り出した。胴中のトップレールは外材のカポール材の末口60cm、13mを1本買いし主な所に使用する。多めの材をそろえると蒲江のドッグに上架して傷んだ所を切取り外しにかかる。

写真11 手前から第18盛漁丸、第八盛漁丸、第拾壱盛漁丸

写真11 手前から第18盛漁丸、第八盛漁丸、第拾壱盛漁丸

第1図 外板の修理(略図)

第1図 外板の修理(略図)

 地元の船大工さん2人に応援を頼んで私が棟梁、加勢は乗組員6名、外板を切取り外し始めるとこれも悪い、これもダメだと胴中は無くなってしまった。父は心配で心配で晩酌の焼酎を飲みながら「本場の船大工が10人も15人もかかって造った船を、あのようにバラバラにしてもうて元どおり出来るんかあ、年寄りの船大工を当てにして素人ばっかりで見よってみい、盛漁は途中でやめてほたくるどぉと言って笑いよら」と毎晩のように同じことを言っていた。よほど心配だったと思う。私は商売もしながら船大工仕事も多忙をきわめた。胴の間の戸立も一枚外しては整形、修繕しては取付け次の戸立を外す。一度に何枚も取外すと船体が変形して取付け出来なくなるから1枚づつ修理しては取付けた。外板は△アオリとアオリの上部板を船体強度を増すために1寸ほど厚くして締め付けた。トップレール下の外板も4寸厚さの板を胴の間を全通して締め付けた。これで船体はそうとう強くなった。デッキ板も増厚して通し板にし船体の強度を増した(第1図)。出来あがっていくと楽しいもので、老いた父もやって来ては「ホーホー」とうなるだけ。唐草板も磨き上げ修復して金箔をはる。金箔貼作業は最初の船を造った中学3年生のとき、父に連れられて第八盛漁丸(初代)の唐草板を仕上げるのを富島造船所で見学に行っていたのでそれをまねて実行したら、うまく出来て仕上がりは上々だった。唐草板を取り付けると新船同様に。船を下ろして、これ見よがしに港内を廻りやれば出来るを見せつけた。建造から20年を経ての大修理でまた新船のように甦った。

 第18盛漁丸や第八盛漁丸もほどなく大修理が必要となったが修理は断念し、FRP船の建造にかかる。この船を第弐拾八盛漁丸とし第拾壱盛漁丸と同じ100t級でも生間容量は1.5倍ほど、積む量も1.5倍、船速も早いし居住性もいいので早くFRP船に変えればよかったと思ったものです。第弐拾八盛漁丸を主力船とし第拾壱盛漁丸を補助船とする。その後、第18盛漁丸と第八盛漁丸は港内で浮かしたまま解体する。

写真12 第弐拾八盛漁丸(FRP船)

写真12 第弐拾八盛漁丸(FRP船)

 平成18年(2006年)第拾壱盛漁丸の大修理をしてから6年後、ハマチを満載して帰る途中に宇和島沖で座礁事故、船首左舷側に大穴をあけたがどうにか沈没はまぬがれた。鋼船やFRP船なら間違いなく沈没であったろうと思う。水面ギリギリでどうにか持ちこたえ、積んでいたハマチは付近を航行していた宇和島の往宝丸が積み移してくれた。損傷のない生間部を排水して船体を浮かせどうにか蒲江に帰ってくることが出来た。修繕が可能か?それとも廃船にするか思案し、老いた父は「もう、ほたくれ!」と一言、「ほたくれ」というのは、ほうり捨ての方言、私はこの前苦労して修繕したばっかり、もう一度生き返らしてやろうと上架して修理にかかる。幸い6年前大修繕をした時の乾いた外板材がたくさん余っていたのでこれを使う。山から切り出して製材したばかりの用材は外板材には使えない。千葉県在住の生船愛好家の嶋田直秀さんもお見舞いにかけつけてくれ、修理しょうか、どうしょうかと迷う私に元気を与えてくれた。外板をぬじ曲げていく一番難しいところである。2ヶ月ほどかけ悪銭苦闘の末、元の姿に戻し現役復旧させる。関わってくれたただ一人の船大工の谷口弘康さんも80才になろうとしていた。

 時代は流れ、活魚の流通はトラックにとって変り生船の出る幕がだんだん少なくなっていき、各地にいた生船は姿をけしていき、生船の代表である明石型生船も平成20年(2008年)現在で第拾壱盛漁丸のただ一隻となった。戸髙水産も第弐拾八盛漁丸(FRP船)一隻で既存の販売ルートをまかなえるようなってきた(写真12)。最盛期は3隻でまかなっていたのに、第拾壱盛漁丸も港内に係留していることが多くなり、港の風景の一部になっていた。年に一時期毎年働いたのは6月のモジャコの運搬、東町漁協の用船で鹿児島県種子島島間港から鹿児島県出水郡長島町の養殖業者にモジャコを運んで卸す。それが唯一の仕事となった。その時は私が船長、乗組員は岩崎雄三郎と養殖の人員を一人乗せ東町漁協の職員も乗ってくれた。

 ある年こんなことがあった。鹿児島県川内沖を種子島に向け航行中、海上保安庁の巡視船が追い付いてきて大音量のスピーカーで停船命令を受けた。航海中に停船を命じられたのは初めてのことだ。保安部の人達にとっては見たことのない船で不審船だと思ったのであろう。日本国内に唯一隻しかないのだから仕方がない。船内を物珍しそうに見て回り感心することしきりであった。書類の不備を指摘され鹿児島県串木野港まで同航を命じられ、とんでもない時間をつぶすはめになった。こちらは予定があって時間繰りをしながら走っているのに人の都合などどうでも良いのだと腹が立つ!それ以来、川内沖ははるか沖合を航行するようにした。川内原子力発電所があるため絶えず巡視船が巡回して不審船を見張っているのだ。もうお世話になりたくない、日本にはこんな船もあるということを知っておいてほしい。

 令和5年6月(2023年)の種子島からモジャコを長島へ。6航海が無事終り、これを最後に廃船を決意する。満船状態になると船首部(マストから前)の浸水がひどくなり、波があると1.2インチの排水ポンプで排水が追い付かなくなり、補助ポンプを起動して排水に努めた。もうこうなったら船じゃない、外海を走り命をつんでいるのだ。出港する前にはホーコンを打ち込んで処置しているのだが波の中に入ると、船体のきしみではじきだしてしまうのだ。空船にすると胴の間も浸水が激しく、外板の継ぎ目の各所から水が流れ各戸立の「通り栓(合いの栓)」を水が流れて、一番艫の間に溜まり絶えず排水に努める。長い航海が終り港内に係留すると何よりもまずしなくてはならないことは、製材所からのこくずをもらって来て、それを潜って進水個所に吸わせる。進水個所が鋸くずを吸い付けるのだ、これで浸水はほぼ止まる。これをせずにそのままにしておくと、一晩で船は満船状態になる。鋸くず処置をしても少しづつ浸水があり毎朝エンジンをかけてポンプ排水する。それが年老いた船の毎日の日課だった。機関室も少しの浸水があり、浸水個所の特定が出来ず、毎朝の排水は絶対欠かすことのできない日課になった。船体は弱ってしまっていた。木造船で43年が経過する船は国内では例がないのではないかと思う。塗装すると外観は新船のときのままだ。ブルーラインは船首に向って反りあがり、流れるような船形は美しく唐草模様の金箔を輝かせ、構造的な美しさと機能的な美しさが見る者を魅了する。乗る者に自信と誇りも与えてくれた、各地の港に入るとスマホで写真を撮る風景がよく見られた。船体はもうなくなったけど人々の心に残っていると思う(写真13)。太古以来の永い木造船の歴史、本船第拾壱盛漁丸が最後の大型木造船であると思う。どうにかして永く残していこうと修理改修を繰りかえし、どこから見ても不具合や朽ちたところはなかったが、やはり限界がある。浸水して沈んで無様な姿は見られたくない。幸い明石型生船発祥の地、明石から第拾壱盛漁丸を記録した調査報告書をつくろうという動きがあり、種ケ島から長島航海を終え、しばらくして明石の人達が来訪して、皆さんを乗船させて湾内を巡航する空船で走り、また生間のスカッパーを全開して海水を入れ、満船状態にして走ったりと、昼食は船内食を体験してもらう。本船にとって、貴重な最後の仕事であった。後日、岸壁に係留したまま、解体にとりかかる。

写真13 第拾壱盛漁丸 戸髙源之助 2023年7月

写真13 第拾壱盛漁丸 戸髙源之助 2023年7月