明石型生船の生活空間は主に船尾デッキに集約されており、ブリッジの両側にある通路を抜けると食堂に当たる小デッキ、その船尾最後尾に厨房があった。通路は両側も板張りになっており、航海中に波を被っても船内に海水が漏れないようになっていた。途中に引戸の小窓が1ヵ所設けられ風抜きの役目を果たしていた。昔は右舷通路は荷物置場として常に使用されており、人は左舷通路を使って船尾デッキと行き来していた。
船尾生活空間の上には運動デッキと呼ばれる板張りの覆い屋があり、雨除けの役割を果たしていた。関係者の聞取りでは「運動デッキ(バックデッキ)」と呼称されているが、その名前の意味などは不明で、当初から漁船型活魚運搬船には小規模な雨除けのデッキが見られ、さらに明石型生船が生まれるに際して定型的な運動デッキが現われる。運動デッキは中央の梁を受けるコの字型の受けが付いた鉄パイプで作られた中柱(スタンション)はA型をした金物で、前後二カ所で小デッキと艫廻りで受けられ、デッキ周りは鉄パイプで作られた複数の外柱で船尾トップレールや艫廻りトップレールに取り付けられている。中柱は船によって高さが異なることからA型金物としての規格はあるが、ハンドメードで作られ白くペンキ塗装されている。船の大きさによって外柱の数は異なるが、中柱は基本的には2本である。屋根材のビーム材や天板として張られる板材は檜材が使用され、防水ペンキで白色に塗装される。この上に高さ約70cmの手摺りが取付けられ、笠木(手でつかむ横板)と欄干下枠の間を柱状の手摺子(バラスター)が支えている。バラスターは9cm×9cm、長さ60cmの角材(材料は節目が無いラワン材に似た輸入材)を旋盤や轆轤で材料を回転させて作られており、地元鉄工所などに外注され船大工がデッキ手摺りとして組立てた。またブリッジ上部のバラスターには船名を書いた救命浮環(救命浮輪)が組み込まれている(写真2)。
「運動デッキは主に雨除けの役割があったが、昭和30年代(1955年)に西部瀬戸内海や天草地方から蛸を活魚運搬船で輸送するには、取外し可能な蛸が入るための巣を設置していた。蛸を積みに行くときは解体された蛸巣を運動デッキに積んで行き、蛸を下ろした後、蛸巣は解体され運動デッキで乾燥される。小型生船の場合、運動デッキを付けると頭が重くなり安定性が悪くなるので付けない場合もあった。運動デッキは雨除けとしての機能が重要で、バラスターが付いた手摺りは明石型生船の飾りの意味を持っていたと思う。(日野賀生)」と語っている。また運動デッキにはブリッジ後方に、機関室天窓、機関の排気管を覆っている化粧煙突が組み込まれたスカイライキが設置されている。
小デッキ(トモデッキ)は厚さ2寸の檜の板材を組み合わせた板間で、船員室の天井部分にあたる6帖ほどの広さがある。この部分の板組は複雑で艫廻り材、小デッキ板間、胴中トップレール材の順で立によって組合され、艫廻り部分の横方向の圧力に強い構造となっている。小デッキの船首側には機関室につながる鉄扉があり、ディーゼルエンジンが運転されていると隣の人の話が聞き取れない程に騒音が激しい。特に夏場は機関室が非常に熱くなるので、ほとんど解放されたままであった。その前にある階段を上がると運動デッキに上がれる。これ以外にはブリッジ横の通路から金属フレームのステップで直接上るか、艫廻りに取付けられたA型金物をステップにして上がることができる。
小デッキの両木口面は、安全のために(腐食しないために)ステンレス板が巻かれ釘付けされている。小デッキは中央が僅かに高く緩やかなカマボコ型になっており、中央に既製品の座卓テーブルが置かれている(3-1)。テーブル脚の船首側2ヵ所は黑紐で運動デッキの梁を支える中柱(A型金物)に固定され(3-2)、船尾側2ヵ所は小デッキ天板に固定されているガスコンロを置いている木箱に固定されている。座卓テーブルの天板には縁材が後付けられ、食器等が落下しないように工夫されていた。中柱には自作の調味料入れ、ドリンクホルダーが上下に設置されている(3-2)。コンロは使い込んだ2口ガスコンロを使用しており、木箱に入れられ小デッキ床面に固定されている。五徳には細長く伸びた角状の突起が新たに溶接し取付けられ、海が荒れてもアルミ鍋やフライパンがずれないように工夫されていた(3-3)。ここで煮炊きするには風除室入口の両側の柱に取付けられた木製のステップに上がると、上半身が小デッキの上に出る形となり作業が可能となる(3-4)。
小デッキの下には乗組員室(寝室)が設けられているため、高さ110cmで人が立って移動することは出来ないが屈んでは移動できる。座卓テーブルからも座って食事する場所だと分かる。照明は運動デッキ中央の梁に蛍光灯が設置されている。日中は自然光が厨房のテントシート越しに入り明るいが、夜になると少し薄暗く感じる空間である。右舷側、左舷側の壁面には引戸の吊り戸棚(上下左右の四区画)が取付けられている。「全ての生船に小デッキがあったわけではなく、第二十二住吉丸(HG2-1562)、昭和24年(1949年)16.54tは、通しデッキになっており、小型生船には小デッキが無いものもあった。また、戸棚は右舷側の一方にあるものもあり、大型の生船になって左舷側にも付けるようになった。これは左舷通路が船尾デッキへの主要通路になっているのと関係している。(日野賀生)」
小デッキから船尾側に降りると、人が立って胸まで隠れそうなほどの小デッキまでの高さ128.5cmの厨房空間となり、船尾の目線には艫廻りのオレンジ色のテントシートが一面に広がって見える。右舷側の流し台(3-3)は厨房の4分の1ほどの場所を占めており、そのうち船首側半分ほどは、水切りカゴがあり食器や鍋が所狭しと積み上げられており、テントシート部分を一部巻上げ換気窓ができていた。台の下には、両手鍋や野菜の入った段ボール、水入りポリタンクが5つ置かれていた。流し台には食器を洗うための泡だったタライと水を張ったタライがあり、流し台の上には運動デッキを支える外柱3本を支えとして板を張り、調理器具のお玉や玉子焼器、フライパン、片手鍋が吊下げられていた。また小物カゴの中には食器用洗剤やスポンジが入っていた。包丁は包丁差しに5本ささっており、通常のもの、魚さばき用、刺身包丁らしきものがあり、その下には、ごみ入れにしているタライが置いてあった。厨房の機能としては一般家庭のキッチンと何ら変わらない。
船尾には、保冷庫(4-1)が二つあり味噌、刺身、ペットボトルのお茶が収納されていた。いずれの保冷庫も下に桟木をかませ床面より浮かせ、さらに桟木に取付けた横木によって、時化でも移動しないように固定されている。その後ろには艫廻りのトップレールに上がる木製の小さなステップがあり、そこから船尾外側(艫廻りの外)に金具で吊るされた「箱便所」(4-2)を利用する。ほとんどの生船はこの形のトイレで船大工が作った木製であった。ちょうど人が屈むと下半身が隠れる縦横60cm、高さ60cm程の大きさで、三枚の底板の内、中央の底板が抜けている構造で、乗り込み側が一段低く抉られていた。時化にあったとき使用していて、海に落下した乗組員がいたとの逸話が語られている。基本的には設置したままであるが、大時化の時は波で叩かれ破損するので取付けた蝶番部で船内側に折りたたんでくくり付けたり、取外して船内に取込んでいた。トイレットペーパーが普及する前には、ちり紙や新聞紙を切ったものを手で揉んで柔らかくして後始末をしていた。最新の箱便所はFRPで作られ縁にはスポンジが貼られ、底板には鍵穴形の穴が開いている。材質は変わったが形は伝統を引き継いでいる。基本的にトイレは船内にはない。
左舷側は風呂を中心とする水まわりで、団地やアパートで活躍していたFRP製の浴槽にバランス釜を付けなおし湯沸かし専用として利用している(4-3)。浴槽には自作の木製の風呂蓋を取付け、湯が冷めないように工夫されている。生船にとって水は貴重で湯舟として利用するのではなく、かけ湯として使用していた。風呂の横にはシャンプーやボディソープの入ったカゴが備え付けられ、その上にある干物を作る干し網の横に、ボディタオルも吊り下げてあった。風呂の下には平板を置き桟木によって風呂を固定している。バランス釜にはガスボンベから直接ゴムホースでガスが供給されている。運動デッキ最後尾の両側には蓋付の倉庫が左右あり、ガスボンベが右舷に4本、左舷側4本の合計8本が保管されている(4-4)。このボンベから厨房にゴムホースでガスが供給されている。普通は貴重な水を利用する風呂は船にはなく集荷基地のある港近くにある銭湯に行くか、取引先のご厚意で自宅に招かれて風呂に入るくらいであった。
小デッキの下には乗組員の寝室と厨房をつなぐ風除室がある。その入口は框構造になっており上面にトタンが捲かれ、引戸によって内部と仕切られる。寝室側にも引戸があって、その間が風除室となるがやや閉塞された空間となっている。そこには米やご飯を炊くための炊飯器用のコンロがあった。框構造は大時化時に海水の侵入を防ぎ、二重引戸は乗組員室への風の侵入を防ぐ機能を持っていたと考えられる。
乗組員は6人乗りの生船の場合、船長1名、甲板員2名の甲板部と機関員2名の機関部、厨房員1名の6名が乗り込んでいる。集荷場所に生簀を設置し生簀内の魚を集めて回る巡航船の場合、無寄港で目的地まで24時間連続で走るので4時間3交代で、最低でも甲板部3人が必要となる。また機関員はこの間エンジンを連続運転するのに欠かせない人員となる。5人乗りの場合は甲板部3人、機関部1名、厨房員1名となる。厨房員は「カシキ」と呼ばれているが、生船関係者の聞取りではなぜカシキと呼ばれるのかは解らないが、昔からカシキと呼ばれているとのことであった。『大辞林第四版』三省堂2019には「かしき・炊事をすること。飯をたくこと。また、その場所・炊事をする役の者。特に、近世の廻船で炊事をした年少の者。現在も漁船などで、炊事や雑用にあたる者をいう。船乗りになる第一段階。」とあり、主な仕事が船内での炊事係であった。