元活魚運搬船機関長田口誠氏は、昭和32年(1957年)に大日水産株式会社所属の第八住吉丸(HG-630)48.40tに乗船していた。当時は中学校を出た17歳で19歳までの3年間はカシキとして働き、昭和36年(1961年)20歳の時、講習を受け第二十八号住吉丸(HG-841)約50tの機関員になった(写真6)。通常は乗組員やカシキは決まった船に乗り込んでいるが、他の船にケガや病気で一時的に人員不足が生じた場合は、カシキはカシキとして、機関員は機関員として手助けに行くことはある。またカシキは若い人が担当しているとは限らず機関員等の免許を取得しなければ、いつまでもカシキとして乗船することになる。カシキの中には50歳を過ぎた人も何人かいた。
淡路島富島にあった大日水産株式会社所属の生船(巡航船)の場合、出航の前日までにカシキは、米、味噌、たくわん、わかめ、かぶらや大根、人参などの長持ちする根菜類の食材を日数分買いそろえ船に積み込んだ。午前6時に淡路島富島港を出港し、8ノット(時速約15km)で瀬戸内海を西進(下り)し、五島列島や対馬を目指した。出港当日、乗組員は自宅では朝食を取らずに必ず生船で朝食を食べていた。お米は「カシオケ」と呼ばれる直径40cm、高さ30cmの木桶に、約一升を入れて海水で米を研いでカシオケをゆっくりひっくり返して時間をかけて海水を落とす。カシオケには木蓋が付いていて、その隙間は海水が落ちるだけで米粒が落ちない程わずかなものであった。洗い終わった米は真水を入れ羽釜を重油バーナーで朝食、昼食、夕食の三食分を炊き上げ、オヒツに入れて古い毛布を被せて保温すると冷えていくのが遅くなった。真水で米を研いでいないので少し塩味が付いていたがそれはそれで美味しかった。火床は厨房と乗組員寝室の間を両開きの引戸で仕切られた「デッキ下」と呼ばれる空間にあった。右舷側に重油バーナーが置かれここで炊飯や煮炊きが行われていた。そこには直径約10cmの煙突が付いており、小デッキの床面から運動デッキに突き抜けて繋がっていた。左舷側には米袋が置かれていた。朝食は香川県小豆島大角鼻までの間にご飯、みそ汁(朝食のみ)、野菜を湯がた温野菜の簡単な朝食を済ませた。
食器は船に備え付けられていて、自分の家の食器を持っていくことはなかった。船には茶碗、みそ汁椀、少し大きな角皿(刺身の盛付皿)、醤油皿、箸、スプーン等で最小限の食器と、大きな両手鍋1ケと羽釜1ケでオカズは鍋を使いまわして、みそ汁や魚の煮つけなどを作っていた。アルマイトの鋺もあったが、唇をつけると熱かったのであまり使用しなかった。フライパン等はなかった。それは時化になると破損するからで食器の管理するのが大変だったからである。湯呑はなくお茶(緑茶)はヤカンが無かったので羽釜でお湯を沸かし、その中にカーゼにお茶の葉を包んでいれて作ったものを杓ですくって茶碗に入れて飲んでいた。個人の茶碗や箸の区別(銘々器)はなく共用の食器であった。食事の時は速いもの順に茶碗を取りご飯を入れて食べた。
調味料には、醤油、味噌、塩、サッカリン(砂糖の代用)、酢等があり、お酒は飲みたい人が持参してきたり、香川県多度津港で砕氷を積む時に氷屋さんがお神酒の酒をくれたりした。ビン類は「ビン立」と呼ばれる縦30cm、横45cm、高さ20cmの木箱上面に一升ビンが縦2本、横3本が入る丸穴をあけて、醤油、酢、酒ビンを立てていた。ビン立の底には縦横の桟が付いており、それを小デッキの上面に釘で固定していた。船大工に頼んで作ってもらった。食事が終ったら右舷にあるナガシで、オイルポンプでくみ上げた海水で食器を洗って、水切りのために「隙板(スイタ)」すのこに伏せて乾燥させる。凪の場合はすぐに次の食事時間になるのでそのままでよいが、茶碗が置けないような時化が来る場合は「茶碗箱」と呼ばれる縦25cm、横25cm、高さ20cmの箱に、茶碗等の陶器製食器を伏せて入れて紐で結んで、小デッキのなるべく低い隅にさらに紐で固定していた。そうしないと食器が「コロ、コロ、コロ~ところげて」破損するからである。小デッキには右舷、左舷ともに引戸が付いた作り付の戸棚があったが、荷役の時に使う軍手、防水手袋、帽子、防寒具などの作業道具が入っており、食器や食材を入れる場所ではなかった。時化になると食事は具材の入っていないオニギリで、セイロ箱に紙の青い冷凍シートを敷いてオニギリを並べて入れて小デッキに置いておくと、お腹が空いた乗組員が順番に食べに来た。カシキが船長等にオニギリを持って行くことはしなかった。
昼食は12時でご飯、乗船前に仕入れた天ぷら、野菜の炒め物を食べた。香川県多度津港で砕氷を積む時はその手前ぐらい位置で、積まない時は香川県高松市手前になる。食事は停泊中では乗組員全員で食べるが、基本的には24時間無寄港で走るので、船長が食事するときは他の乗組員が操船していた。島や航行中の船の少ない場所で比較的安全な場所ではカシキが操船することもあった。小デッキには食卓テーブルなどは一斉なくデッキがあるだけで、そこで左舷先頭に船長、次に甲板長、甲板員、右舷先頭に機関長、機関員が差し迎えにあぐらをかいて座り食事をしていた(写真5)。夕食は17時から18時頃で、ご飯、根菜類の煮物などで三食あまり変わらない食事だった。ちょうど山口県熊毛郡上関あたりで食べることになる。下りは作業が少なく乗組員は、次のワッチの時間以外は乗組員室寝室(二段ベット)で寝ていることが多いのでカシキは「起きろ、めしやぞ~」大きな声で伝えていた。ブリッジの当直(ワッチ)は24時間4交代制で午前6時~正午12時、12時~6時、6時~0時、0時~午前6時であった。機関室も同時刻で当直をしていた。船長によっては24時間3交代で当直していた船もあった。小デッキの照明はネジ込み式のはだか電球で直流バッテリーを電源としていた。
飲料水は艫廻りの左舷側、ちょうど右舷側の流しの反対側に1,500リットルの木製水タンクが設置してあった。タンクは船大工が作ったもので、赤身の杉板を摺り合わせ、縫釘で板材を接合して艫廻り合せて焼曲げたもので船大工が木造船の造船技術を駆使して作ったものである。板材の接合面にはマキハダを積めて水漏れを防止している。昭和32年頃はまだ富島には水道が無かったので井戸の水を伝馬船で運搬し、木製水タンク上面にある木製蓋がかぶった30cm四方の方形穴に柄杓で補給していた。タンクの下には蛇口が付いていた。水は初めのころは杉の香りがしていた。タンクの清掃は大切な仕事で内面をたわしでこすって清掃していた。タンクは時化でも動かないように角桟で固定されており、小デッキに上がるにはこの角桟に足をかけてステップ代わりにしていた。
カシキの寝床も乗組員室にあり、ちょうど船首側の神棚の下に高さが低い一段ベッドがあった。乗組員室中央には2帖ほどの畳が敷かれた空間があるが、時化になると転げてしまって寝ることは出来ないため、乗組員は自分のベッドに入って足を踏ん張って時化をやり過ごしていた。カシキのベッドの下にはスクリューシャフトが通る開口部が作ってあった。寝室の布団や枕は活魚運搬に出ない時に、デレック(デッキクーン)の横木に何枚かを並べて干していた。運動デッキにも空間はあったが上るのに手間がかかるため使わなかった。運動デッキには蛸巣、魚を入れるセイロ箱、ロープの他、荷下ろしに使う掬い網などが置かれていた。風呂は4日、5日間は入らなかってもよかったが、対馬に行く途中の時間調整で山口県下関港に入った時は、港近くの銭湯に皆で入りに行っていた。またマダコを運搬している生間に入って栓口の閉栓作業をすると、蛸の吐き出した墨で真っ黒になるので水を被って洗っていた。気の利いたカシキは羽釜でお湯を沸かしてくれたので、それを被って風呂代わりとした。
五島列島や対馬で天然魚を積込んで神戸や大阪を目指す上りでは、生間の魚の状態を常に管理する仕事があった。船長や機関長、乗組員全員で生間の魚を見ていた。少しでも弱った魚がいるとたも網で掬って〆て(スグリ)、セイロ箱に並べて氷蔵室に入れる作業を行う必要があった。弱った魚を放置していると、他の魚にも悪い影響が出て死んでしまうからである。しかし上り船ではこの魚をおかずとして食べることが出来たので、新鮮なお造りや煮魚が食卓に出て、下りの船の食事とは違っていた。イセエビを運んでいた時には死んだイセエビを使ってカレーライスを作った。当時は固形カレールーはなく袋に入ったカレー粉で作った。乗組員には大好評で高級レストランのようなカレーライスとなった。みんなでお代わりをして全てたいらげた。
これがカシキとして17歳から19歳まで、活魚運搬船に乗込んだ貴重な体験の記録である。