1.大崎造船所

213 ~ 222

 富島漁港には港に面して通称埋立と呼ばれる所にある富島漁業協同組合の北側に、大日水産株式会社富島造船所があった。現在は旧敷地内に阪神・淡路大震災後、6階建てのコミュ二ティ住宅と漁船の引上げレールがあり、船材置場、製材所などは空地となっており、そこに造船所があったことは分からない。コミュニティ住宅から撮影した写真(1-1)を見ると造船所から見た二階建ての富島漁業協同組合があり、その位置関係から造船所の場所が推定される(写真12)。

 阿部造船所は富島漁港の一番奥(南側)にあった造船所で、その南側に接して株式会社西淡路ライン(明石港~富島港)の旅客航路の浮桟橋があり、それと並行して2本の造船所への引込レールがあった。旅客船には島内を走る淡路交通バスが接続していた。浮桟橋はすでに撤去され明石港か岩屋港に移設されたが、その痕跡は堤防の一部切れ目の海中に自然石積みが見られる(1-3)。『淡路島今昔写真集』2006年65頁には撤去前の浮桟橋が撮影されており、右奥に通称埋立とコミュニティ住宅が見える。昭和40年以前は桟橋が整備されておらず中継ぎ船で一時停泊している明石行の船(八幡丸・松帆丸)に乗り継いだ。阿部造船の跡地は北淡子育て学習センターや喫茶店の建物以外は、駐車場や空地になっている(1-4)。現地を訪ねても阿部造船の跡地を確認できるだけである。

 株式会社大崎造船は、富島漁港の中ほどあたりにあり、富島漁港を訪れると黄色く塗装された大型クレーン2台がよく見えるのでその位置が分かる。海側(西側)見ると、かんぽの宿淡路島の真下に見える。一見すると造船所の景観は今も稼働しているように見えるがすでに廃業している(1-5)。昭和53年の図面には引込レールは3本あるが、木造船を建造している昭和38年以前は2本であった。

 昭和30年前半(1955年前半)の正月に撮影された(写真2)には、大崎造船所の前浜を埋め尽くす木造船が多数繫留されている。お盆と正月は漁が休みでこのような風景が見られた。浜には漁船を引き上げる手廻し轆轤があり、無動力の小型漁船が浜に引き上げられている。浜は砂浜ではなく砂利交じりの浜であった。繫留されている船をよく観察すると、前列左側から三隻目、機帆船に挟まれて5t程度の小型明石型生船があり、その背後の漁船の間にはブリッジ上部にバラスター(飾り柱)を設けた10隻ほどの明石型生船が見られる。このような小型の生船は、主に大阪湾や播磨灘などの範囲(マエ)を中心に活動する生船で機帆船と分けられることはなかったが、大型の明石型生船(巡航船)は通称埋立の岸壁に艫付けされていた。現在、海岸は堤防によって整備され、砂利浜は失われている。写真3は大崎造船所と共同鉄工所の間で撮影された記念写真で、右側後方に大型の活魚運搬船が小さく見える。海岸は砂利浜である。

1-1 大日水産株式会社富島造船所跡

1-1 大日水産株式会社富島造船所跡

1-2 富島漁業協同組合と6階建てコミュニティ住宅

1-2 富島漁業協同組合と6階建てコミュニティ住宅

1-3 株式会社西淡路ライン浮桟橋跡

1-3 株式会社西淡路ライン浮桟橋跡

1-4 阿部造船所跡地

1-4 阿部造船所跡地

1-5 大崎造船所(北側)

1-5 大崎造船所(北側)

1-6 通称埋立にある富島漁業協同見える

1-6 通称埋立にある富島漁業協同見える

1-7 大崎造船所 引込レール

1-7 大崎造船所 引込レール

1-8 大崎造船所 黄色ジブクレーン

1-8 大崎造船所 黄色ジブクレーン

写真2 大崎造船所前浜 昭和30年前半(1955年前半)

写真2 大崎造船所前浜 昭和30年前半(1955年前半)

写真3 大崎造船所 遠く艫付けされた大型活魚運搬船

写真3 大崎造船所 遠く艫付けされた大型活魚運搬船

写真4 第三清福丸(KA2-793) 香川船籍の活魚運搬船

写真4 第三清福丸(KA2-793) 香川船籍の活魚運搬船

 写真4は大崎造船所の内部景観が分かるもので、造船所で外注船の明石型生船が造られていたことが分かる。造船所内には二本の引上げレールがあり、その南側を使って活魚運搬船が建造されていた。船籍番号KA2-793は香川県船籍の第三号清福丸で船体のペンキ塗り替えの為、上架された時で、船下し前に地元の前田写真店(現在廃業)に依頼し撮影したものである。デッキに立っている人物は左側がこの船を造った船大工の竹垣納(竹垣義治の父)で、右側が建造を依頼した船主である。このような記念写真は自分の家に飾るものと、船主にも贈呈していた。第三号清福丸の上棚には長方形の換水穴(栓口)が複数見られ、その配置から3間6艙の生間が配置され、写真に写る人物の身長から復元すると長さ16.6m、20t程度の中型明石型生船と思われる。この船は新造進水した時には、まだエンジンが積まれていなくて、エンジンの重さだけ米俵に砂を詰めて海に下したら少し傾いたので、もう一度上架させて主機を積込んだ。

 第三号清福丸の前には、船を上架する際に使う鋼鉄製のソリと小さな伝馬船がある。さらによく観察すると、伝馬船の横では長方形の木栓が作られていたようで、10点程度が確認できる。黄色のジブクレーンは初代のもので、現在造船所に残されている鉄鋼船用より小型である。少し見えにくいが船尾右端には、明石港と津名郡北淡町富島港を結んでいた西淡連絡汽船の旅客航路に就航していた「八幡丸」が桟橋に繫留されている。八幡丸は大崎造船所が建造した木造旅客船で丸造り専門の船大工が造った。

 大崎造船所の建造実績については書類等の記録も残っておらず、聞き取り調査でも記憶されておらず詳細は不明であった。『明石型生船調査報告書vol.2』(以下、生船報告書と呼ぶ)189頁「株式会社木下鐵工所の焼玉機関出荷台帳を読みとく」は大正14年(1925年)~昭和28年(1953年)までの焼玉エンジンを納入した造船所が判る資料で下記の4か所に大崎造船所の名前が見られた。

・224頁26行目 第二幸栄丸、昭和7年7月18日契約、昭和7年9月20日納期、中古、30馬力、氏名沖 岸(不明文字)、住所:津名郡富島、造船所:富島町大崎造船所

・226頁22行目 浜栄丸 昭和8年4月28日納期、中古、50馬力、氏名河合寅一、住所:兵庫県津名郡富島町、造船所:富島町大崎造船所

・278頁11行目 ・明生丸、昭和21年12月10日契約、昭和22年3月31日納期、製作番号20073号~S34~11、型式2GB-138、100馬力、氏名:津田醇一、住所:長崎県南松浦郡奈良尾町、造船所:兵庫県津名郡富島町大崎造船所

・279頁12行目 若宮丸、昭和22年11月2日契約、昭和23年1月末納期、製作番号20050号~S32~5、型式海務員型、75馬力、氏名森萬五郎、住所:宮崎県東臼杵郡北浦村市振、造船所:兵庫県津名郡富島大崎造船所

 大崎造船所の創業が昭和元年以前であるから資料が正確なことが判るが、焼玉エンジンが搭載された船が活魚運搬船であるかは不明である。

 戦後の大崎造船所の建造実績については、生船報告書87頁の元かねか商店代表取締役(故人)日野逸夫氏の「活魚船史-淡路富島における活魚運搬業の展開(未完)-」の中に記載されている。それを整理したものが第1表淡路・富島における活魚運搬船(1945年~1957年)で、★印が大崎造船所、○印がその他造船所及び造船所不明を表している。生船の建造は淡路島外では香川県東かがわ市引田の引田造船所、兵庫県明石市の宗田造船所などがあるが、活魚運搬船(生船)の殆どが淡路島内で建造されており、どこの造船所でも簡単に建造出来るものではなかった。島内では淡路市岩屋の東根造船所、大徳造船所そして大崎造船所が戦後の活魚運搬船を主に建造していた。大崎造船所では戦後間もない昭和21年(1946年)第十三金宝丸を初めに、昭和22年(1947年)第十六明生丸、第一住吉丸、昭和23年(1948年)第十六住吉丸、第五富栄丸、昭和24年(1949年)第八富栄丸、第三住吉丸、第二十一住吉丸、昭和26年(1951年)第十一富栄丸、昭和28年(1953年)第十五富栄丸、第十八富栄丸と毎年のように発注があった。昭和29年(1954年)第八蛭子丸(洋型船)、昭和31年(1956年)第三住吉丸(洋型船)を建造している。以後、昭和37年(1962年)までは不明であるが、生船報告書70頁第8表昭和32年(1957年)度兵庫県運搬船組合会員名簿に北淡町富島関係で10隻の活魚運搬船が登録されている(一部は20年代に建造されたものと重複もある)おり、30年代にも継続的に建造されていたと思われる。またこれ以外に活魚運搬船の修理やエンジン転換、積量変更工事が行われていた。

 戦後の活魚運搬船建造のきっかけになったのは、1948年(昭和23年)5月22日の高級魚九品目(マダイ・ハナダイ・チダイ・サワラ・スズキ・シラウオ・海産性アミ・エビ類・カニ類)の公定価格撤廃、8月1日からこれら九品目の配給統制撤廃である。戦前から複数の船を所有していた大手筋といわれる活魚運搬業を営む経営者が次々に新造船の建造をはじめ、戦後の復興期を迎えたからである。

 昭和38年(1963年)には、大崎造船所が木造船から鉄鋼船の造船に切り替えたため、鮮魚運搬業を営む日野家の9代目の大日水産株式会社社長、日野顕徳氏が自社内に木造船造船部門を設立したため、大崎造船所の活魚運搬船の造船は終わり、その後は大日水産株式会社富島造船所にその技術が引き継がれた。富島造船所には宗和豊松氏(富島造船所2代目船大工棟梁)、大崎進氏(船大工)など多くの職人が迎えられた。宗和豊松氏は昭和18年(1943年)大崎造船所に住み込みで入社し、船大工になった。当時造船所には船大工、船大工見習い、テッタイ(下働き)、職工など多い時は30名弱の人が仕事をしていた。

 第1図は大崎造船所周辺の略図で造船所内の施設や設備について説明する。造船所は主要地方道福良・江井・岩屋線を境にして、海側に造船関係施設、山側に事務所等の附属施設が配置されていた。造船所には浜辺から海中に延びるレールが南北に並行して2本敷設されており、南側のレールで活魚運搬船が建造されていた。船は降雨が少なく木材がよく乾燥する秋から冬(9月~12月)に建造されるが、やむをえず炎天下の8月から行う場合は筵で簡単な覆屋を組んで作業をしていた。北側のレールでは主に船の修理等が行われていた。船を修理のために上架するときは若い職人が海に潜って台車に引掛ける作業をしてから、小屋のなかにあるウインチで引き上げていた。海岸は海に向かって傾斜しているだけで堤防はなかった。

第1図 大崎造船所周辺略図

第1図 大崎造船所周辺略図

 木工所はレール南側の東西に長い建物で、送材車付き帯鋸盤(木造船を造らなくなったので最後は同じ富島にあった有馬材木店に売った)に長尺大径木の材料を送込む幅の狭いレールが敷設されていた。生船の外板(カジキ、上棚)に使う弁甲材はそこで2寸3分から2寸の板材に加工され、他の造船材とともに桟木を挟んで乾燥させていた。長尺大径木の弁甲材(丸太材で弁甲材の特徴であるハツリ加工はされてなかった)はトラックで運搬できなかったので機帆船から港に下したのち、造船所までワイヤーで引っ張り上げ木工所の横に集材されていた。そこにはヒノキ、ケヤキ、タブ、肥松、マツ根など造船に使う原木が置いてあった。原木は兵庫県姫路市網干の田路木材店や兵庫県南あわじ市福良の土井木材店から購入していた(船大工竹垣納氏は社長大崎サカエ氏と原木を買付に行っていた)。

 また、造船所内の北側には平屋の木造建物があり、その横には木材を蒸気によって温め曲げやすくする(たわませる)ための、縦1尺6寸×横1尺6寸(約50cm×50cm)、長さ2間(約3.6m)の細長い蒸箱(スチームボックス)が設置してあった(第2図)。蒸箱の下には容量200リットルのドラム缶(直径60cm、高さ90cm)を半裁し、4本を連接したスチーマー(ボイラー)部分が鉄骨枠で支えられ設置されていた。この部分に水を入れて下部を火で炊いて湯を沸かして蒸気を蒸箱に供給する。使用するときは蒸箱に蒸気を入れて十分に温度が上がってから木材を中に入れた。木材は蒸箱内に桟木によって浮かされており、全面にもれなく蒸気が当たるようになっていた。両側の蓋を閉めた状態でその隙間から蒸気が漏れ出ているのがちょうどいい状態であった。また蒸箱の上に木材を並べその上にムシロを被せて使用することもあった。木材は蒸箱から出した時は飴のように曲がるが、1~2分で冷え始めるので、作業を素早くこなす必要があった。蒸箱は船大工の手作りであった。機帆船などの丸造りの船を建造する時に5寸幅位の外板材を曲げるのに使っていた。また木造漁船を轆轤で巻き上げて上架する時には、井型やH型の修羅に漁船を乗せて曳上げるが、その船底裏側の滑りのために打つ樫板材を曲げるためにも使っていた。そこで船大工竹垣 納氏は小型木造漁船を主に造っていた。大崎造船所は株式会社になってから午前8時から午後5時までの勤務で、終了時間にはサイレンが鳴って皆が帰宅した。しかし船に故障があったらすぐに船大工竹垣 納氏をよく呼びに来た。「仕事するから早く直してくれ!」と言われたら断ることはなかった。

第2図 蒸箱(スチームボックス)略図 (竹垣義治氏作成を一部改変)

第2図 蒸箱(スチームボックス)略図 (竹垣義治氏作成を一部改変)

 山側には大崎本家、大崎造船所事務所があった。事務所の2階には仕事の進み具合に合わせてホーコン屋やペンキ屋等の職工が来て泊り込んで仕事をしていた。また近くには一人だけ専門のホーコン屋が住んでいた。その南側には木造二階建ての倉庫建物があり1階が資材倉庫、2階が図面場になっていた。現在は県道に沿って事務所や個人住宅が立ち並んでおり、その景観は失われている(7-7)。

 資材倉庫には船釘、鋼鉄製ボード、タック釘、木ボード、埋木などが棚に整理されて置かれていた。船釘は釘樽(洋樽を小さくした形をしており帯鉄状の金輪を上下はめたもの)に6寸、5寸5分、5寸のように長さに合わせて入れられて送られてきたが、釘は緻密には出来ておらず手作り感があった。船釘を貰いに行くと、新聞紙を重ねて厚くし、そこに何キロ単位で釘を包んで最後にその釘1本を新聞紙の綴じ目に突き刺して渡してくれた。神戸の金物屋さんでは釘樽に入った洋釘を小さい熊手ですくって売っているのを見たことがある。

 昭和30年代(1955年代)の造船所南側の景観は、(写真5)である程度読みとることが出来る。生間の修理のために上架された住吉丸の間から見える手前にある瓦葺建物は、製氷業を営んでいた富島水産(戦後は富島産業鉄工所)の事務所と砕氷を作り出す施設があった。大日水産株式会社に残された書類の中には「昭和53年3月13日付申請、漁港施設(用地)継続申請で氷塊不砕氷船舶機械揚げ積用桟橋 富島産業株式会社代表取締役日野顕徳として94.7m2、年間3,420円申請し占用料金を支払っている。施設の横断面図、求積図(第3図)、現状写真(写真6)が添付されている。この場所は富島産業株式会社の瓦葺建物の先端にあたり海に面した場所にあたる。基部は幅9.0mで途中から狭くなり先端部では6.0m、長さ13.2m、基礎からの高さ2.5mの鉄筋コンクリート製の構築物である。(写真4)の第三号清福丸の船尾に一部見えるクレーン、(写真5)の住吉丸ブリッジから見える富島産業株式会社の突起部(上部に物が置かれている場所)が氷塊不砕氷船舶機械揚げ積用桟橋の痕跡にあたるものと考えられる。活魚運搬が盛んな頃は活魚運搬船が桟橋に接岸し太いパイプで「ガラ、ガラ」と砕氷を補給していた。

写真5 修理のために上架された住吉丸から造船所南側の建物を見る

写真5 修理のために上架された住吉丸から造船所南側の建物を見る

写真6 氷塊不砕氷船舶機械揚げ積用桟橋

写真6 氷塊不砕氷船舶機械揚げ積用桟橋

第3図 同施設平面図

第3図 同施設平面図

 その南側には小道を挟んで瓦屋根建物の共同鉄工所(元水産倶楽部)の工場があった。工場では阪神間のエンジンメーカーの下請けとして、エンジン部品を中心に生船や漁船の搭載する中古エンジンの解体修理を行っていた。昭和30年代(1955年代)には水産倶楽部では地回りの人形浄瑠璃や映画が上映されていた。さらに港に注ぐ「谷川」(7-4)を挟んで農機具や〆カギなどを作っていた山名鍛冶屋店(現在も富島郵便局と道を挟んで営業している)がある(7-6)。この位置関係からすると富島産業、共同鉄工所は現在の淡陽信用組合富島支店及び駐車場と空地となっている(7-5)。

 写真10は長崎船籍の住吉丸(NS2-2074)が生間を損傷し、修理のため上架されたもので昭和30年代の造船所東側中通りの町並みと富島港背後の山並みが見られる。生船周辺にはハツリ痕がある弁甲材を乾燥させている。これらの残された写真を通して大崎造船所の周辺景観がある程度理解できる。

7-1 共同鉄工所跡地(西端)

7-1 共同鉄工所跡地(西端)

7-2 県道から見る元大崎造船所

7-2 県道から見る元大崎造船所

7-3 富島産業跡地(大崎造船所南側の細長い跡地)

7-3 富島産業跡地(大崎造船所南側の細長い跡地)

7-4 共同鉄工所跡地と山名鍛冶屋店の間を流れる「谷川」

7-4 共同鉄工所跡地と山名鍛冶屋店の間を流れる「谷川」

7-5 共同鉄工所跡地(東側) 淡陽信用組合富島支店

7-5 共同鉄工所跡地(東側) 淡陽信用組合富島支店

7-6 山名鍛冶屋店(営業中)

7-6 山名鍛冶屋店(営業中)

7-7 元大崎造船所の事務所・倉庫跡

7-7 元大崎造船所の事務所・倉庫跡

7-8 恵比寿神社

7-8 恵比寿神社