竹垣義治氏が活魚運搬船の模型を作成するために撮影した写真の中に、活魚運搬船の燃料となる重油を供給する配給船の(写真8)がある。給油タンカーではなく陸上に設置された備蓄タンクにある重油を積込み住吉丸、蛭子丸などの各活魚運搬船15~20隻に配給していた。また、福良から撫養までの予備航路があり、その小型フェリーにも給油を行っていた。配給船は淡路島の規模の大きな福良港、洲本港、岩屋港にはあった。
昭和40年代(1965年代)富島港には兵庫県漁連富島給油所の宝山丸(鉄鋼船の新造給油船)、倉本石油(日本石油系、持ち船無し)、藤澤石油(シェル石油系)の3社があった。写真は藤澤石油社船の第八富士丸で、あと一隻同名の富士丸があった。第八富士丸は登録では19.8トン(実際は20トン以上)の船で重油35キロリットルを搭載することが出来た。石油の備蓄タンクは主要地方道福良・江井・岩屋線に面した(株)藤澤石油店昭和シェル富島SS北側のガソリン給油機の所に、160キロリットルの大型備蓄タンクがあった(第1図)。原油は神戸市長田区野田にある昭和シェル石油から定期的に購入していた。第八富士丸の接岸している場所は現在埋立てられ、その場所は分かりにくいが、富士丸船着場は藤澤石油店の前の富島漁港の看板が設置されている後ろの植栽の場所である(写真37)。重油はブリッジから船首に特注した平坦長方形の重油タンク(船体側面から三角形の木材と船底から長方形の木材で支えていた)を搭載していた。ブリッジ後部には活魚運搬船に重油を供給するための平ベルトのクラッチポンプによって給油された。昭和40年当時1リットル当り30円位で、料金は月末払いであった。ブリッジは非常に活魚運搬船に酷似しているが、その他は配給船独特の形状をしている。両船とも大崎造船所で造った船を配給船に改造した。昭和52年頃、昭和60年頃に両船廃船。(藤澤石油藤澤延好)。
なお、『漁場用益形態の研究』「補論第3瀬戸内海の活魚運搬業」1961年345頁には昭和4年(1929年)に富島には巡航船相手の石油商の小型タンカーがあったことが記録されている(昭和4年9月発動機船主名一覧)。