また、大陸や半島からの渡来人も、じょじょに住み始めたと考えられています。『日本書紀』の六八四(天武十三)年五月の条に「百済の帰化人男女合わせて二十三人を武蔵国に置いた」という記事が見られます。
その後、武蔵国の国府が府中におかれました。中央から国司が派遣され、中央集権的な政治が行われていきました。
七四一(天平十三)年、聖武天皇が発した「国分寺建立の詔」により、武蔵国にも国分寺が建てられました。
寺跡が、JR国分寺駅の西南約二キロメートルの所にあります。諸国の国分寺の多くが、二町四方(一町は約百九メートル)の大きさであったのに比べて、武蔵の国分寺は、東西八町、南北五町をこす大きさでした。
伽藍の配置は、奈良の都に建てた総国分寺としての東大寺とほぼ同じ様式です。このような広大な国分寺を建てたということは、武蔵国の開発が進んでいたということです。渡来人が多く来たということは、これからもさらに発展すると予想されたからでしょう。
武蔵国分寺伽藍配置図 (滝口宏氏による)