武士団の誕生

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 大化の改新以来、五十余年を経て、朝廷は、全国の耕地を区分して、農民に一様に貸し与える班田収授法を定めました。
 しかし、七四三(天平十五)年には、この制度以外に、自分で開墾した土地を私有することも認めました。
 新しい都が、七九四(延暦十三)年、京都につくられました。天皇の権威が安定し朝廷の仕組みが整ってきました。
 十世紀になると、朝廷は政治を地方に任せ、国司には税の確保だけを求めるようになりました。各地に、有力な農民が成長し、豪族として勢力を伸ばしていきました。国司は、地元の豪族を役人に取り立てて、税の確保に努めました。
 豪族は、自分の開墾した土地を荘園として貴族や社寺に寄進し、自分はそこの管理者である荘官になって、実際の支配を強めていきました。
 荘園が大きくなると、荘園と荘園、荘園と国司の間に争いが起こるようになります。豪族は荘園を守るために武装し、農民をやとって私兵として武装し、武士団となっていきました。
 これらの武士団は、最初同族を中心にまとまり、次に近隣の武士団と連携したり吸収したりして、さらに勢力を大きくしていった武士団が、「党」です。党には、土地の豪族だけではなく、国司となってきて、そのまま住みついた、皇族や貴族の子孫を中心にした武装集団もありました。