一回目の争いは、十五世紀半ば、足利成氏と上杉氏との戦いでした。二回目の争いは、一五〇四(永正元)年、山内・扇谷両上杉氏の、いわば、上杉一族のお家騷動でした。
市内にのこる板碑の多くは、この時代(一二七七年~一四九〇年)のものです。年号のある板碑で、南北朝時代(一三三六年~一三九二年まで)のものを調べてみると、その年号は、文和・延文・応安など、すべて北朝の年号でした。ということは、対立が激しかった、あの時代において、昭島の武士たちは、終始一貫、北朝方-幕府方の武士であったといえます。
観音寺の板碑群