獣の捕(と)り方が、槍から弓矢に進歩すると、広い範囲を走り回らなくても、獲物が捕れるようになりました。その結果、人々は、一か所に住むようになりました。
縄文人が住むようになった場所は、日当りがよくて、近くに湧水があり、比較的見晴らしのいい所です。武蔵野台地でいうと、狭山丘陵や加治丘陵の山麓、多摩川沿いの、湧水が豊かな所です。
昭島でも、この原則通りです。日当りがよくて、湧水のある、段丘の崖線から、縄文遺跡が発見されています。
代表的な縄文土器
①草創期(豆粒文) ②前期(諸磯式)
③中期(加曽利E式)
④後期(堀之内式) ⑤晩期(安行Ⅲ式)
縄文土器の時期別区分-年代や代表土器は、簡略化してある--特徴は、わかりやすくするため断定した-
時期 | 年代 | 代表土器 | 時期の特徴 | 昭島の例 |
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草創期 | BC 12000 ~7000 | 豆粒文 隆起線文 爪形文 | ・現在のところ日本最古級の土器。(図版①) ・長崎県泉福寺洞窟最下層から豆粒文土器の出土が示すように、洞窟や岩陰も多い。 | ・遺跡は発見されていない。 |
早期 | ~ BC4000 | 井草式 夏島式 稲荷台式 | ・尖底または単純丸底深鉢。 ・竪穴住居が狭く、煮焚は屋外でしたので、地面に突(つ)き刺(さ)せる尖底がつくられた。 ・土掘り用の石斧、木の実などをする磨石や、石の鏃がいっしょに出土する。 | ・林ノ上遺跡 ・上川原遺跡 |
前期 | ~ BC3000 | 関山式 諸磯式 | ・平底深鉢(図版②)を主としているが、様々の形のものがつくられるようになった。 ・竪穴の屋内に、炉(ろ)がつくられた。 | ・破片は発見されたが、遺跡は小規模。 |
中期 | ~ BC2000 | 勝坂式 加曽利E式 | ・貯蔵用の大甕や、豪華隆線文の土器。(図版③) ・湧水に近い河岸段丘上などに、規模の大きい集落ができた。 ・栽培の始まりを考えさせる多量の石斧や、製粉用の磨石・石皿の出土が多い。 ・後半ころには、信仰遺跡と考えられる、配石遺構や土偶が出土し始める。 | ・西上遺跡 ・龍津寺東遺跡 ・広福寺台遺跡 他 |
後期 | ~ BC1000 | 称名寺式 堀之内式 加曽利B式 安行Ⅰ・Ⅱ式 | ・これまでの土器は、陰干ししたものをすり鉢状の穴の焼灰の中に埋(う)め、その上で枯枝などを燃やしてつくった。このころになると、さらにその上を濡(ぬ)れた草や土で覆って、密閉してつくる技法が生まれた。日常用のものとは別の、優美な作品もつくられるようになった。(図版④) ・寒冷期にもどり、採集生活が難しくなったためか、石棒を祭る等の祭祀行為が増加した。 ・磨製石斧や、漁労用の石錘が出土し始める。 | ・龍津寺東遺跡 ・広福寺台遺跡 |
晩期 | ~ BC300~200 | 安行Ⅲ式 荒海式 | ・精巧な、壺・注口・香炉・皿など、がつくられるようになった。(図版⑤) ・後期の中頃からみられた、西関東から東関東への移動と考えられる遺跡の減少が、いっそう顕著になる。 ・狩猟生活の活発化か、石鏃の出土が多い。 | ・坂上遺跡 |
◇縄文土器の呼び名
明治十(一八七七)年、米国の動物学者のモースが、大森貝塚を発見した。そのとき出土した土器名を、明治十九(一八八六)年、植物学者の白井光太郎が、縄文土器と翻訳して発表したのが始まりである。
北海道から九州まで、日本各地から出土する土器だが、今のところ、日本以外の地域からは、出ていない。
◇縄文土器の縄文の意味
縄目の文様は、装飾だけではない。
一つは、土器を丈夫にする知恵である。生乾きの土器に縄を押(お)し付けると、粘土の中の空気が抜けて、焼いた時、割れにくくなるからである。
一つは、滑り止(ど)めの知恵である。土器の表面に、水や動植物の油が付いた時、縄目があると、滑りにくくなるからなどが考えられる。