三 昭島の縄文土器(じょうもんどき)

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 槍を持って、獣を追って昭島へ入って来た人はいました。しかしその人たちは、また獣を追って、昭島を出ていってしまいました。
 獣の捕(と)り方が、槍から弓矢に進歩すると、広い範囲を走り回らなくても、獲物が捕れるようになりました。その結果、人々は、一か所に住むようになりました。
 縄文人が住むようになった場所は、日当りがよくて、近くに湧水があり、比較的見晴らしのいい所です。武蔵野台地でいうと、狭山丘陵や加治丘陵の山麓、多摩川沿いの、湧水が豊かな所です。
 昭島でも、この原則通りです。日当りがよくて、湧水のある、段丘の崖線から、縄文遺跡が発見されています。

代表的な縄文土器
①草創期(豆粒文) ②前期(諸磯式)
③中期(加曽利E式)
④後期(堀之内式) ⑤晩期(安行Ⅲ式)

縄文土器の時期別区分-年代や代表土器は、簡略化してある--特徴は、わかりやすくするため断定した-
時期年代代表土器時期の特徴昭島の例
草創期BC
12000
~7000
豆粒文
隆起線文
爪形文
・現在のところ日本最古級の土器。(図版①)
・長崎県泉福寺洞窟最下層から豆粒文土器の出土が示すように、洞窟や岩陰も多い。
・遺跡は発見されていない。
早期
BC4000
井草式
夏島式
稲荷台式
・尖底または単純丸底深鉢。
・竪穴住居が狭く、煮焚は屋外でしたので、地面に突(つ)き刺(さ)せる尖底がつくられた。
・土掘り用の石斧、木の実などをする磨石や、石の鏃がいっしょに出土する。
・林ノ上遺跡
・上川原遺跡
前期
BC3000
関山式
諸磯式
・平底深鉢(図版②)を主としているが、様々の形のものがつくられるようになった。
・竪穴の屋内に、炉(ろ)がつくられた。
・破片は発見されたが、遺跡は小規模。
中期
BC2000
勝坂式
加曽利E式
・貯蔵用の大甕や、豪華隆線文の土器。(図版③)
・湧水に近い河岸段丘上などに、規模の大きい集落ができた。
・栽培の始まりを考えさせる多量の石斧や、製粉用の磨石・石皿の出土が多い。
・後半ころには、信仰遺跡と考えられる、配石遺構や土偶が出土し始める。
・西上遺跡
・龍津寺東遺跡
・広福寺台遺跡

後期
BC1000
称名寺式
堀之内式
加曽利B式
安行Ⅰ・Ⅱ式
・これまでの土器は、陰干ししたものをすり鉢状の穴の焼灰の中に埋(う)め、その上で枯枝などを燃やしてつくった。このころになると、さらにその上を濡(ぬ)れた草や土で覆って、密閉してつくる技法が生まれた。日常用のものとは別の、優美な作品もつくられるようになった。(図版④)
・寒冷期にもどり、採集生活が難しくなったためか、石棒を祭る等の祭祀行為が増加した。
・磨製石斧や、漁労用の石錘が出土し始める。
・龍津寺東遺跡
・広福寺台遺跡
晩期
BC300~200
安行Ⅲ式
荒海式
・精巧な、壺・注口・香炉・皿など、がつくられるようになった。(図版⑤)
・後期の中頃からみられた、西関東から東関東への移動と考えられる遺跡の減少が、いっそう顕著になる。
・狩猟生活の活発化か、石鏃の出土が多い。
・坂上遺跡

 
◇縄文土器の呼び名
 明治十(一八七七)年、米国の動物学者のモースが、大森貝塚を発見した。そのとき出土した土器名を、明治十九(一八八六)年、植物学者の白井光太郎が、縄文土器と翻訳して発表したのが始まりである。
 北海道から九州まで、日本各地から出土する土器だが、今のところ、日本以外の地域からは、出ていない。
◇縄文土器の縄文の意味
 縄目の文様は、装飾だけではない。
 一つは、土器を丈夫にする知恵である。生乾きの土器に縄を押(お)し付けると、粘土の中の空気が抜けて、焼いた時、割れにくくなるからである。
 一つは、滑り止(ど)めの知恵である。土器の表面に、水や動植物の油が付いた時、縄目があると、滑りにくくなるからなどが考えられる。