五 上川原遺跡(じょうかわらいせき)

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 上川原遺跡(巻末地図参照)は、昭島駅から南へ、およそ三百メートルの所にあります。立川段丘の端で、かつて、わき水に恵まれていたのは、林ノ上遺跡と同じです。
 昭和四十五(一九七〇)年に発見されました。その年の末、第一次調査が行われました。調査の結果、遺構は発見できませんでしたが、三か所から、集中して遺物が発見されました。
 第二次調査は、昭和五十(一九七五)年に行われました。調査の結果、およそ三・五メートル四方の、焼礫群が発見されました。(写真1)

1.上川原遺跡出土の焼礫群

 礫は、七~十五センチメートルくらいの大きさでした。およそ三十センチくらいの厚さで、六百個ほどありました。礫は、淡い赤褐色でした。
 この礫群は、屋外の調理場跡と考えられています。旧石器時代以来の伝統をひくものとして、貴重な遺構です。
 遺物は、撚糸文・縄文の夏島式土器が多く、その中の井草式土器を復元したものが、市の資料室にあります(写真2)この種類の土器としては最も残存率もよく、型式の特徴もよく出ている貴重品です。市の有形文化財に指定されています。

2.上川原遺跡出土の土器

 第三次調査は、平成四(一九九二)年に行われました。遺跡の中心地が、地下でうどを栽培していた所なので心配でしたが、予想以上の成果でした。
 三回目の調査で、初めて住居跡が発見されました。半分は隣地にかかっていて発掘できませんでしたが、三・六メートルの、方形か長方形と考えられます(写真3)。とすると、この時代の一般的な住居跡といえます。

3.上川原遺跡の竪穴住居跡

 床面は軟らかくて、柱の穴も確定できなかったので、どういう屋根がついていたかは、推定できませんでした。しかし、土が焼けている、しっかりした炉(ろ)は発見されました。
 また、十基の集石遺構も発見されました。第二次調査で、二基の集石遺構が発見された東側に、四基が集まっていました。この付近に、集石遺構が集まっていることから、生活の中心の一つであったのだろうと考えられます。
 土器は、ほとんどが縄文早期の、撚糸文系でした。
 石器も、ほとんど撚糸文系土器といっしょに出土しました。礫器のほか、スタンプ形石器や磨石(写真4)が多く、製粉が盛んだったと想像できます。

4.上川原遺跡出土の磨石

 磨石の中に、側面を使い、骨角器の製作に使用したものもあったことが考えられます。