この地域は、戦前から、土器片や石器が採集されていて、遺跡のあることはわかっていました。だから個人的な小発掘は行われていました。
戦後、開発に伴って、正式に三次の発掘が行われました。その結果、縄文中期から後期にかけて続いた、市内縄文遺跡としては最も大規模な、集落遺跡であることがわかりました。
発見された遺構は、竪穴住居跡一軒、竪穴状遺構一基、敷石住居跡三軒です。他に、土坑八基、集石遺構十か所と、埋め甕三つも発見されました。
竪穴住居跡は、縄文中期後半のものです。
敷石住居跡は、縄文中期末から後期のものです。これは、中部から関東を中心に発展した様式です。
発見された敷石住居跡の一軒は、小型で、柄鏡型です。柄(え)は東を向き、円形部分の南に二個、北に一個の扁平な石が立っています。このことから、祭祀用遺構と考えられています。
もう一基は、大部分の石が抜き取られています。もう一基は、戦争中の爆撃で、南側が吹き飛ばされています。
1.龍津寺東遺跡発見の縄文中期の敷石住居
2.龍津寺東遺跡発見の縄文後期の敷石住居
埋甕や土坑には、墓坑と思われるものもあります。
土器は、多様な形の物が出土しました。後期の土器は薄手で、沈線文が主体の、洗練された文様です。
3.後期初頭称名寺式の優美な土器
4.後期の堀之内式土器(敷石住居出土)
その外に、古墳時代後期の住居跡一軒や、中世のピット群なども発見されました。このことから、長い間集落が続いたと考えられます。
石器としては、ここでも打製石斧が主流でしたが、一部、磨製石器も出土しました。その他、黒曜石やチャートを加工した石鏃(図版6)も出土しました。
6.龍津寺東遺跡出土の石鏃
特徴としては、石錘(図版5)が、たくさん出土したことです。五センチ前後の平たい楕円形の石の両端を、磨いたり打ち欠いたりして、切り込みをつくってあります。ここに糸をかけて、網の錘りにしたと考えられています。
5.龍津寺東遺跡出土の石錘
石器全体では、磨石・石皿・石棒などが多く出土したことは、人々の食生活がまだ、植物の採取か、せいぜい原始的農業が主であったことを示しています。
しかし、たくさんの石錘の出土から、この地域では、縄文後期から、網を使う魚捕りが盛んであったと考えられます。