この付近は、古くから石器や土器の破片が出るので、遺跡があることは知られていました。
調査は、昭和五十二(一九七七)年春以降、広福寺の墓地拡張や、地域の開発の事前調査などに伴って、四次にわたって行われました。
調査では、縄文中期の住居跡三軒と、集石土坑、他に、多量の土器と石器が発見されました。
1.広福寺台遺跡発見の集石土坑(石むし料理に使われた)
住居跡は、墓地の下に入り込んでいるため、全部は発掘できませんでした。しかし、どちらからも、甕を埋(う)めてつくった炉跡が発見されました。
炉に使われた甕が、勝坂式であったこともあって、縄文中期の集落跡と考えられます。
また集石土坑は、幅が一~一・五メートルのすり鉢状で、焼礫がびっしりつまっていました。
その他、堀之内式や加曽利B式土器も発見されました。このことから、縄文中期から後期にかけて、人々が生活していたと考えられます。
この遺跡からは、かつて、直刀一本が発見されています。このことから、古墳が存在していたのではないかと考えられています。
また、四次調査では、奈良・平安時代の住居跡六軒も発見され、今後の研究が期待されています。