昭和二十年代に、芋穴を掘(ほ)っていた人が、土師器の甕を発見したことがあります。そのころから、遺跡があることはわかっていました。
昭和四十一(一九六六)年、この付近一帯に、都営団地が建つことになりました。そこで市教委では、本格的な調査を行いました。
調査の結果、三軒の竪穴住居跡が発見されました。住居跡は、およそ二十メートル間隔で、南北に並んでいました。竪穴は、(写真2)一辺が六メートル前後の方形で、北東の隅にかまどを持っていました。焚口に、細長い河原石が立てられていました。
2.山ノ神遺跡 3号住居跡
一番北の住居跡は、焚口の部分がこわされていて、床に、柱の炭化したものがあり、一面に灰が散っていました。このことから、火災になって捨てられた家と考えられました。
土器は、土師器でした。(写真1)これは、古墳時代後期のものであることから、これらの住居跡は、古墳時代後期のものと考えられます。
1.山ノ神遺跡出土の土師器
①②③ 坏形土器(食物を盛るための器)
④⑤ 甕形土器(おもに食物の煮炊きに用いたが、容器にも使われる)
⑥ 甑形土器(米などを蒸すために使われた器で、底は穴があいている)
この遺跡から、特筆することが三つあります。
一つは、この時代から炉(ろ)からかまどに変わっていることです。かまどは、粘土で築かれ、焚(た)き口には石が立ててありました。
二つは、甕と甑と坏が、セットでたくさん出土したことです。
甑は、甕とセットで使われました。下の甕に水を入れます。上の器は、底に穴があいています。その上に布などを敷(し)いて、米を入れます。かまどで火を焚(た)くと、蒸(む)し器になります。
かまどと甑の発明は、人々の食生活を、豊かにしたと考えられます。
カマドと甑の使用方法
三つは、一つの住居跡から、蝋石で作られた玉が二つ出たことです。祭祀に使われたと考えられています。
平成十一(一九九九)年、団地の建替えに伴っての調査で、古墳時代の住居跡一軒と、遺跡の南西部からは、中世~近世の、遺構や遺物がたくさん発見されました。