中国との交流を通して、「日本も、一つにまとまらなくてはならない」という気運が高まりました。大化の改新◆がその契機です。
大宝律令◆が制定されて、中央・地方の組織ができました。中央集権の形が整ったのです。
地方には、五十八の国が置かれました。
武蔵は、二十一郡をもつ、大きな国となりました。国衙◆は、現在の府中市に置かれました。
七四一(天平十三)年、聖武天皇の発願で、全国に、国分寺と国分尼寺が建立されました。
武蔵国にも、国衙に近い、現在の国分寺市に、武蔵国分寺◆と、国分尼寺◆が建立されました。
出土した寄進瓦から、二十の郡名が発見されました。このことからも、国分寺・国分尼寺が、武蔵国の総力をあげての造営であったことがわかります。
奈良・平安時代の武蔵国は、国衙や国分寺を中心に栄えていました。府中市の調査によると、この時代に二万戸の竪穴住居が造られたと思われます。
六世紀中ごろ、朝鮮半島を経由して、仏教が伝わってきました。そのために有力者は、古墳をつくるより、寺院を建てるようになりました。遺体も、火葬するようになりました。
一方、一般の人は、相変わらず方形または長方形の竪穴に住んでいました。
平安中期以後、灰釉陶器や緑釉陶器が、東海地方で生産されました。しかし一般の日常用には、土師器や須恵器が使われていました。
特に須恵器は、大量生産されるようになり、普及しました。
◆大化の改新
六四五~六四六年。中央集権国家を目指して、中大兄皇子が、中臣鎌足らの協力で行った政治改革。中国(隋)から帰国した高向玄理・僧旻らを登用し、国の形をつくり始めた。
◆大宝律令
七〇一(大宝元)年、刑部親王・藤原不比等によって編纂された。大化の改新の改革を法的に整えたもの。
◆国衙・国府
律令制による国司が、国を治めた役所が国衙、その所在地が国府。
◆武蔵国分寺・国分尼寺
国分寺は、発掘により、南から、南大門・中門・金堂・講堂が並び、東に七重塔の存在が確認された。
国分尼寺も、国分寺の西、およそ四百メートルの所に存在していたことが確認されている。