諏訪神社には「宮沢」の地名の起こりと伝えられるわき水があります。また、近くの鈴木さんの屋敷からは、今も水がわき出していて、蛍が生息し、わさび栽培が行われています。
このように、この辺は、人が住みつくのによい条件が備っていたので、人々が集まり住んだと考えられます。府中に、武蔵国の国衙がつくられ、人々が、しだいに、多摩川に沿って広がっていった、平安中期ごろのことです。
昭和三十七(一九六二)年、市内の遺跡を調査していた和田哲さんが、ここで遺物を発見し、結果を『経塚下遺跡』として発表しました。
昭和五十一年、奥多摩街道バイパス建設に伴い、第一次調査が行われました。
その後、宅地開発などに合わせ、十五次にわたって調査が続けられました。その結果、奈良・平安時代の竪穴住居跡十五軒、土坑五十八基、溝五条、ピット多数の遺構が発見されました。
1.経塚下遺跡の遺構配置(第一次調査)
遺物では、土師器、須恵器、灰釉陶器の外、鉄製品も出土しました。
4.経塚下遺跡出土の須恵器と土師器
住居跡も、段丘の端に集中する外に、ずっと奥まった所にも散在しています。
第一次調査で発見された十軒の竪穴は、二軒を除いて、北側か東側に、それぞれのかまどを持っていました。
2.経塚下遺跡の1号住居跡
3.経塚下遺跡 1号住居跡実測図
炊事用のかまどのなかった五号住居址からは、鉄滓が出土しました。鍛冶関係の遺跡で、集落内で、鉄製品がつくられていたと考えられます。
土坑の多くは、直径一メートル内外の円形です。なかには、底面に石が詰(つ)まったものもありますが、どんな目的でつくられたのか、まだわかりません。
ピットと呼ばれるものの中には、掘立柱の跡も含まれていると思われます。とすると、竪穴の外に、平地の建物もあったと考えられます。
遺物は、調理用の土師器の甕、盛り付け用の坏や、貯蔵用の須恵器の甕が中心です。坏は、ロクロでつくられ、切り離しには、回転糸切り技法が用いられた、糸底の多いのが特徴です。
須恵器は、北武蔵の東金子と南比企(埼玉)や南武蔵の御殿山(八王子)窯跡(ごてんやまかまあと)群の製品が用いられています。
なお、風字硯(写真5)や、文字の書かれた土器が出土することから、集落内に、文字の読み書きができる人がいたと考えられます。
5.風字硯
風という字に近い長方形の硯。前方が海、欠けている後方が陸。
前方と左右に縁があり、後方裏面に脚がある。めずらしい物だが、やや粗雑な品である。