発見後、建物を造る範囲だけを発掘しました。その後、昭和五十六年三月、教育委員会が主体となり、遺跡の範囲の確認調査をしました。その結果、南西に約三百メートル広がっていることがわかりました。
また、その後の調査で、竪穴住居跡や、溝の遺構も発見されました。
出土品から、経塚下遺跡よりも新しい遺跡と判断されました。平安時代の、十世紀から十一世紀に及ぶ、集落遺跡と考えられます。
この遺跡の発見でわかった、重要なことが二つあります。
一つは、十世紀ごろから、人々が、水田の近くに住むようになったということです。
東耕地以外の住居跡は、段丘の、上か縁の、湧水の近くから発掘されています。それはまだ、多摩川のような大きな川の水を利用する技術がなかったためと考えられます。東耕地遺跡(巻末地図参照)の発掘によって、十世紀になって、多摩川の水を利用した水田も開発されるようになったと考えられるようになりました。また、水田耕作を主とした生活が営まれるようになり、住居も、水田面まで、さがってきたことがわかります。
二つは、出土した灰釉陶器(写真1)から、既にこのころ、離れた地域との活発な交易が行われていたことがわかったことです。
1.東耕地遺跡・滝の上遺跡などから出土の灰釉陶器
遺跡から発掘されたのは、須恵器の坏でした。ほかに、甕や、頸の短い壺もありました。
土師器も出土しました。坏・碗・甕などです。
また時代を反映して、鉄製品も多く出土しました。鏃・刀子・釘・錘などです。なかでも錘は、他の遺跡では「用途不明」とされていたものを「錘」とした点で、特筆される遺物です。
しかし、なんといっても、かなりの量の灰釉陶器の出土が重要です。その後の調べで、岐阜県多治見市周辺の東濃窯跡群の製品が多いことがわかりました。このことによって、十世紀のこのころから既に、かなりの地域と、活発な交易が行われていたことが、わかるからです。