七 摂関(せっかん)政治と在地豪族(ごうぞく)の台頭

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 八五七(天安元)年に、藤原北家◆の良房が、臣下として初めて、太政大臣になりました。
 このあと良房は、臣下として初めて、摂政にもなりました。
 良房の養子基経は、関白に昇りつめました。
 この良房・基経のころからの政治の仕組みを、摂関政治◇といいます。
 藤原北家の一門が、大臣以下、参議までの重要な役職の過半数を占(し)めるようになりました。そうなると、摂関家の家政をつかさどる政所に、国の政治の中心が移っていきました。
 政治を独占した藤原氏は、具体的な政治は、自分たちの都合の良いように働く下役に任せ、自分たちは、文化的な生活を楽しむようになりました。
 そのため、律令制は形式だけ残り、本質は崩れていきました。
 一方、北家でない藤原氏を含めた、中央政権では出世の見込みのなくなった貴族たちは、「せめて地方行政官になりたい」と、国司になる運動をするようになりました
 そのために、有力者に、さまざまな形で取り入りました。たくさん散財した者だけが、やっと、国司や、地方の役人になることができたのです。
 国司に任ぜられると、本当は任地に赴任しなくてはなりません。しかし、実際には、自分は京都にとどまって、目代◆を派遣する人がたくさんいました。これを遥任◆といいます。こうして、任地に代理を送って収入だけを得る国司が多くなりました。もちろん、国司になって、任地に赴く貴族もいました。これを受領◆といいます。
 遥任であろうと、受領であろうと、国司になると、自分の収入を増やすことを第一に考えました。なにしろ、たくさんの散財をして、やっと手に入れた役職です。これまでの出費を、取り戻さなくてはならないからです。
 任期が終わったあと、また国司になるためには、有力者への心付けを続けなくてはなりません。そのうえ、蓄財も必要です。
 上司が、自分の財産を増やすことを第一に考えていれば、下役もこれにならいます。そのため、地方の政治はいっそう乱れ、農民の生活は、苦しくなっていきました。
 農民の中には、土地を離れて、浮浪する人たちも出てきました。
 浮浪の民の中には、盗賊となり、農作物や財産を奪う者も出てきました。群れをつくって、近隣を襲う者も出て、各地に争いが絶えなくなりました。
 国司は、実力のある豪族を選んで、中央政府から、検非違使◆とか、押領使◆とか追捕使◆に任命してもらい、治安に当たらせました。
 一方、農民の中には、自分たちを守るために、武器を持つ者も出てきました。また、有力な豪族をたより、護ってもらうようにもなりました。豪族は、職務を通して、武力や財力を増やし、いっそう力をつけていきました。
 こうして豪族の中で勢力の強い者が、実質上その土地を治める、武士団の長になっていきました。
 武士団の長の中には、豪族の他に、荘官もいました。
 また、受領国司やその下役、目代などのうち、任期後も、その地に土着した人たちも含まれていました。
 
◆藤原北家
 鎌足の子不比等は子どもに、南家・北家・式家・京家を立てさせた。
 北家は、二男房前の子孫で、良房は、房前の三男真楯の子孫である。
 道長のころ最も栄え、近衛・九条・一条・鷹司などに分れ、今日に至る。
◇摂関政治
 八五八(天安二)年、清和天皇が即位した。しかし、まだ九歳であったので、外祖父の藤原良房が、事実上の政治を行った。
 八六六(貞観八)年、良房は、臣下として初めて摂政に任じられた。
 八八〇(元慶四)年、陽成天皇の成人に伴い、良房の養子、基経は、関白に任ぜられ、政治を行った。
 このような、摂政・関白による政治を摂関政治という。十世紀から十一世紀にかけて、盛んであった。
 
◆目代
 平安・鎌倉時代、現地に赴任しない国司に代って、現地の官人を指揮した人。
◆遥任
 国司が任地に行かず、権守や介などを代理として目代にし、目代に政務をとらせること。
 このため、律令制は崩れ、国衙は、実質的に、有力豪族の手に移った。
◆受領
 任地で政務をとる、国司の最上席。
 平安後期になると、受領貴族の中には、任期が終わっても、そのまま、その土地に居着く者も出てきた。
◆検非違使・押領使・追捕使
 盗賊の追捕・暴徒の鎮定にあたった。律令とは別に設けられた役。国司・郡司、のちには豪族からも任命された。