鳥羽上皇(一一〇三~五六)の崩御によって、保元の乱◆が、続いて平治の乱◆が起きました。この二つの乱を契機に、武士が中央に進出し、政権を獲得することになったのです。
平治の乱で、勝ち残ったのは平氏です。一時は、「平氏にあらざれば人にあらず」という程に勢力を持ちました。
しかし、公家政治を引き継(つ)いだために、武士らしさを失っていきました。貴族と共に、崩壊していきました。
平氏を倒したのは、源氏です。
平治の乱で敗れた源義朝の子頼朝(一一四七~九)は、伊豆に流されていました。
しかし一一八〇(治承四)年、後白河天皇の第二皇子である以仁王(一一五一~八〇。平知盛に追われ、宇治で戦死)の令旨を受けて、平家打倒の兵を挙(あ)げました。
初戦では、伊豆国の目代山木兼隆を討(う)ち敗かしました。しかし続く石橋山の戦いでは敗れ、真鶴(神奈川県)から、海路安房国(千葉県)へ逃れました。
ところが安房では、上総広常・千葉常胤らをはじめ、南関東一円の武士団が、続々帰服してきました。
頼朝は、鎌倉を本拠地に定めました。
まず、京都から攻め下ってきた、平維盛・平忠度らの大軍を追い払いました。続いて、服従しない常陸の佐竹氏を討ち従え、関東一円を統一しました。
次に、侍所を置き、従う武士の訴訟をさばき、本領安堵して、関東の武士を、御家人として統制していきました。
一方、律令の末端機関の国衙を、御家人に実質的な支配をさせ、東国を固めました。平安時代は終わりました。
◆保元の乱
一一五六(保元元)年、崇徳上皇と後白河天皇の兄弟、藤原頼長と忠通兄弟らの対立から始まった争い。
上皇方の源為義・為朝親子が夜襲を主張。頼長が逡巡しているうちに、逆に天皇方の平清盛・源義朝らの夜襲を受け、上皇方が敗れた。
◆平治の乱
一一五九(平治元)年、平清盛と源義朝の勢力争い。
源義朝は、藤原信頼と結んで、平清盛が、熊野詣で都を留守にしている間に、清盛方の藤原通憲を殺し、後白河法皇を幽閉した。
清盛は、急いで帰京し、逆襲した。信頼は殺され、義朝も東へ逃げる途中で家来に殺された。
この結果、清盛を中心とする平氏が勝ち残り、平氏全盛が始まった。