二 集落の発展

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 武蔵国は、鎌倉幕府にとって、重要な知行地でした。幕府は、知行地での税収入を上げるため「多磨河を、堀を通して武蔵野にひきあげて、水田を開く『吾妻鏡』」計画をたてました。
 しかし、多摩川の水を、武蔵野の台地まで引く技術は、まだなかったので、流域の、低地や荒れ地の開発が対象になりました。そして、実際に取り組んだのは、付近の在地武士たちでした。
 昭島に近い多摩川流域の立川や日野には、武蔵七党、西党の立河氏◇がいました。また八王子の浅川流域から南多摩にかけては、横山党がいました。きっと、それぞれの党に属する人々が、開発に精を出したのだろうと考えられます。
 このようにして、昭島市の周りも、水田経営を主とする集落をつくるようになっていきました。
 集落ができたのは、川や浸蝕谷の流域、水に恵まれた台地の周縁です。そこには当然のことながら、在地武士の館もできました。それは、板碑が発見された地域と重なりますし、先史時代の遺跡が発見された地域とも、重なることが多いのです。
 この集落分布の一つの群に、台地の南西の縁になる、多摩川の河岸段丘のものがあります。青梅付近から南東へかけて、羽村・福生・昭島・立川に至る帯状の集落です。
 この帯状の集落には、昭島の、近世に村になった九か村も含まれます。
 このうち、鎌倉時代に、既に集落ができていたと考えられるものに、宮沢と大神があります。
 
◇立河氏
 武蔵七党の、西党日奉氏の一流。宗恒の代から立河氏を称したという。
 鎌倉時代、現在の立川辺りの地頭であった。一二一三(建保元)年、和田義盛の乱で、西党二十一家が加担し、北条義時に滅ぼされた中で、平山氏と共に北条氏に味方し、その後も生き残った。
 室町時代は、土淵郷(現日野市)の地頭を兼ね、文和年間(一三五二~五六)現在の柴崎町に普済寺を建てた記録がある。現在土塁が残るが、館との関係ははっきりしていない。
 柴崎八幡宮(現、諏訪神社に合祀)の本地仏阿弥陀如来に、天正十四(一五八六)年の背銘が残っており、立川照重の名がみえる。
 一五九〇(天正十八)年、北条氏の滅亡と共に、滅びたとされる。