「宮沢村は、日本橋からおよそ十一里(約四十四キロ)の所にある。東は中神村、南は多摩川、西は大神村、上河原村、北は砂川村に接している。水田が多く、畑は少ない。村名は、鎮守の諏訪神社や阿弥陀寺に、きれいな湧(わ)き水があるので、お宮やお寺に、湧沢がある地ということから宮沢の名がついた」とあります。
集落の成り立ちと社寺の創建には、密接な関係があります。それは、集落ができ、人々が増えてくると、一つに固まるために、社寺が必要になるからです。豊作や安全を祈るための拠(よ)り所として、地域に社寺が必要なのです。
社寺は、集落の中心か、集落に近い景勝の地が選ばれて創られます。宮沢の場合は、諏訪神社と、その西の阿弥陀寺がそれに当たります。
阿弥陀寺の裏の段丘には、平安時代の典型的な集落である経塚下遺跡があります。(P54参照)このことから、宮沢の地域が、平安時代の昔から、人々が住むのに適した地域であることがわかります。
宮沢村の鎮守、諏訪神社は、最初は、この地域に古くから居住した、小町氏の氏神として創建されたと伝えられています。
そして、同氏に縁のある諏訪神社を信州から勧請し、祀ったと伝えられています。
阿弥陀寺は、『新編武蔵風土記稿』にも出てくる、古い寺です。
調査した結果、阿弥陀寺から一二七七(建治三)年を上限とする板碑が発見されています。これによって、鎌倉時代か、またはそれ以前から、宮沢付近には、相当な集落があったと考えられます。
阿弥陀寺は、最初、現在の宮沢町十八番地の、小町さんの家の辺りにあったことがわかっています。それが、元禄(一六八八~一七〇四)年間に火災にあい、現在の地に移った記録があります。
境内には、宮沢の江戸時代の初代領主、鎌田孫左衛門の墓があります。
このように宮沢地域は、平安時代から人々が集まって来て、鎌倉時代以降、諏訪神社や阿弥陀寺を中心に、集落が栄えていったことがわかります。
諏訪神社
・創建年代は明らかではない。本殿は、昭和三十二(一九五七)年再建。
・境内末社に、日枝神社(大山咋命)白山神社(白山比咩命)第六天社がある。
阿弥陀寺
・開創は、板碑から、鎌倉時代ごろと推測される。
・真言宗智山派、宮沢山無量院。
・本堂は一七〇一(元禄十四)年、山門は一七二五(享保十)年の建立。
◆新編武蔵風土記稿
一八一〇(文化七)年、昌平坂地誌局で編纂を始め、一八二五(文政八)年頃完了したといわれる地理書。
明治十七(一八八四)年、内務省地理局から、初めて出版された。
江戸時代の、武蔵国の村々の様子を知ることができる貴重な本。
◇大神と「鴨の里」
『日本霊異記』には、武蔵国多磨郡鴨の里の吉志火麻呂の悲話がある。彼は防人として母と九州に赴くが、母を殺して喪(も)に服する名目で、恋しい妻のもとに帰ろうと考えた。しかし、母を殺そうとした時、大地が裂け、彼は転落死した。母は不孝な息子の遺髪を持ち帰り、丁重に供養したという話です。吉田東伍は『大日本地名辞書』で、カミはカモの転訛で、鴨の里が大神になったとした。