六 拝島(はいじま)村と、大日堂(だいにちどう)・日吉神社(ひよしじんじゃ)

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 昭島市内で、宮沢村・大神村と共に、板碑が多く発見されているのは、拝島村です。このことからも、拝島村も、鎌倉時代から、集落があったことがわかります。
 現在の拝島一丁目に、大日堂という、古色豊かな仏堂があります。拝島山密厳浄土寺大日堂です。
 平安時代中ごろから貴族を中心に、密教◆が盛んになります。
 密教は、大日如来を本尊としますから、各地で、大日如来が作られます。拝島の大日堂の大日如来も、その一つと考えられます。
 大日堂は、寺伝に「九五二(天暦六)年、多摩川の大洪水の折に、川の州(す)に大日如来が流れ着きました。村人がこれをお迎えし、一堂を創り浄土寺としました」とあります。
 この、最初に浄土寺が建てられた地を、前述の、大神村小字浄土とする説もあります。しかし、今のところその証拠はありません。
 その後、滝山城が築かれた時に、その鬼門◆除(よ)けとして、石川土佐守が、現在の地に移して、お堂を再建し、大日八坊も建立したという説もあります。
 現在、大日堂の境内には、薬師堂、鐘楼、仁王門、拝島のふじ、おねいの井戸、わき水があり、回りには普明寺・円福寺・本覚院や、別に日吉神社・拝島大師などが集まっています。
 普明寺・円福寺・本覚院は、大日堂同様、石川土佐守◆の創建と伝えられています。普明寺は、大日堂の別当寺として、大日堂の管理をしていました。
 『新編武蔵風土記稿』には、他に、五つの寺院のことを述べたうえで「天台宗の一山八坊」と紹介しています。
 日吉神社は、創建は明らかではありません。しかし、大日堂の守護社としてつくられたので、古い由緒をもっています。
 江戸時代には拝島村の鎮守としてあがめられました。
 拝島大師の本尊は、慈恵大師の、自作像と伝えられています。
 慈恵大師は、天台宗中興の高僧です。九八五(寛和元)年正月三日に入寂◆したので『元三大師』とも呼ばれています。
 この像は、比叡山延暦寺にありました。それが、一五七一(元亀二)年の、織田信長の焼打ちの際、敬諶大僧都によって助け出され、一五七八(天正六)年、現在の地に、一堂を建てて安置されたと伝えられています。

日吉神社

・1741(寛保元)年、山王大権現の称を許されたのを記念して社殿を再建。
・江戸時代、大日堂の管轄下にあったが、明治になって独立。日吉神社と改めた。

大日堂

・本尊は大日如来。現在のお堂は1732(享保17)年の再建。
・江戸時代には、将軍家より御朱印10石の地を受けていた。

普明寺

・大日八坊の一つ。
・大正6年の火災で類焼し、多くの文化財を失ったが、山王祭礼図絵など、貴重なものが残っている。

拝島大師

・本尊慈恵大師像は、2尺3寸の木坐像で、80年に一度、開帳される。
・本寺境内では、正月2日・3日、だるま市が開かれる。その年最初のだるま市なので、初詣かたがたの参拝客で賑わう。
 
◆密教
 大日如来の教えを中心とした仏教。
 わかり易さを大切にする顕教に対して、教養を積むことを大切にする。
 七世紀にインドで起こり、中国を経由、空海により日本に伝えられた。
◆鬼門
 東北の方位をいう。鬼が出入りする方角として、忌み嫌われる。
◆石川土佐守
 北条氏照の重臣で、拝島・羽村を領した。拝島に大日八坊を創った。
◆入寂
 僧が亡くなること。
◆金剛力士像
 五百もの夜叉神を手下にして、仏法を守護している神。
 力強い半裸の姿で、口を開けているのが阿形像、閉じているのが吽形像。一対の神である。(P76参照)