七 大日堂(だいにちどう)の文化財

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 大日堂の堂内の大厨子の中には、木造の大日如来坐像があります。左に、木造釈迦如来坐像を、右に、木造阿弥陀如来坐像を従えています。
 大日如来坐像は『新編武蔵風土記稿』には、「恵心の作なり。胎内に秘仏とする大日一躯を蔵せり。行基の作なるよし」とあります。しかし銘文不祥で、作者は定かではありません。平安時代後期の作と考えられています。
 釈迦如来坐像は、銘文という証拠はありませんが、作品の手法や表現の強さから、鎌倉期に近い、平安時代後期の作と考えられています。
 阿弥陀如来坐像は、像内の腹部と背部から、墨書銘が発見されています。それによって、一六九二(元禄五)年、大仏師大前兵部の作であることがわかりました。制作年代は他の二つに比べて新しいですが、二つの仏像と釣(つ)り合うよう、古風な作りにしてあります。
 三体とも、東京都の有形文化財です。
 大日堂の文化財で、忘れてはならないものに、同様、都の有形文化財に指定されている仁王門の、木造金剛力士像◆二躯(く)があります。『新編武蔵風土記稿』に「運慶の作」といわれているものです。
 昭和五十(一九七五)年に、まず、吽形像の解体修理から行われました。その結果、像内から墨書銘が見つかりました。このことから、鎌倉時代の、一三一五(正和四)年の造立、施主は菅原重光◇で、仏師は、鎌倉の備前□であることがわかりました。
 また、一七六五(明和二)年に、大修理をしたこともわかりました。
 翌、昭和五十一年、阿形像の解体修理を行いました。
 その結果、この阿形像は、吽形像より、一年早く造られたことがわかりました。
 施主は、吽形像と同じ、菅原重光で、仏師は、肥前房とわかりました。
 また、墨書銘に、「敬白浄土寺」という記載がありました。このことから、「浄土寺」の、鎌倉時代実在が明らかになりました。
 鎌倉時代の仁王像は、東大寺の金剛力士像で有名なように、ふつう激しい形相をして、大さな動きをしています。しかし大日堂の仁王像は、静的で、素朴な表情をしています。
 このことから、菅原重光やその周辺では、運慶◆・快慶のような仏師よりも、平安時代の、おだやかな仏像の方が、好まれたのだろうと考えられます。

1 木造大日如来坐像

・寄木造り。漆の上に金箔がつけられている(漆箔)。
・後光を表わす光背は、二重円光。
・像高一五七、五センチメートル。

2 木造釈迦如来坐像

・寄木造り。漆箔。
・光背は、二重円光。
・像高九十センチメートル。

3 木造阿弥陀如来坐像

・寄木造り。漆箔。
・光背は、二重円光。
・像高八六センチメートル。

仁王門総寺号額

・密厳浄土寺の扁額
・大田南畝(一七四九~一八二三)が著書『調布日記』で賞賛。

大日堂仁王門

・天正年間(一五七三~九二)の伽藍の一部と推定される。
・寄棟造の八脚門。

大日堂仁王門・木造金剛力士阿形像

・左手に金剛杵を持ち、右手は下げて五指を開く。
・像高、三三五センチメートル。

大日堂仁王門・木造金剛力士吽形像

・左手はこぶしをつくり、右手は、手のひらを前に、五指を開く。
・像高、三三一センチメートル。
 
◇菅原重光
 大日堂仁王門の、金剛力士像の解体修理(昭和五十~五十三年)で判明した、金剛力士像を寄進した人。
 阿形像の胎内墨書銘に
 「大壇那地頭谷慈孫三郎菅原重光」
とあることから、鎌倉幕府の御家人で、地頭職にあった人物と思われる。
 谷慈と称しているので、滝山丘陵の南を流れる、谷地川流域の、中世谷慈郷(現八王子市加住地区)を本籍とする人物であろうと思われる。
 当時、谷慈郷を含む船木田庄は、村単位で、在地武士を地頭にしていた。谷慈氏もそんな一人であろう。
◆運慶
 鎌倉前期の仏師。父康慶、子湛慶、弟子快慶らと共に、慶派といわれる。
 力強い、写実的な作風で知られる。
 一二二三年頃死亡と考えられる。