八 周辺武士団と昭島

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 『太平記』◆では、元弘の乱の時に、幕府軍として京都に攻(せ)め上った軍勢の中に、多くの武蔵の御家人の名を挙げています。
 足利尊氏が討幕派に移り、幕府の出先機関の六波羅攻めをした時の記事では、武蔵の御家人の名は、まだ、六波羅勢の中に多く挙がっています。
 六波羅が落ちた翌日、一三三三(元弘三)年五月八日、新田義貞が上野国で、討幕の軍を起こしました。そして、鎌倉を目指して、武蔵国を横断しました。その間、小手指原・久米川・分倍河原などで、歴史に残る戦いが行われました。それらの戦いで、武蔵の国人◇は、両方に分かれて働いています。どちら側に付いた方が得か、まだ迷っていたのだと思われます。
 しかし、昭島に直接関係のある場所や人物は、登場していません。
 一三三三年、鎌倉幕府が滅び、建武の新政が始まります。勲功第一として、尊氏が、武蔵・相模・伊豆三国を、知行国として貰いました。尊氏の弟直義は、成良親王を奉じて鎌倉に入り、関東十か国を管轄することになります。こうなると武蔵の国人は、争って足利氏の下に走り、従来の諸権利の保障、本領安堵を求めるようになりました。
 そして一三三六(建武三)年、尊氏は、光明天皇をたてて、武家政治を再興しました。世にいう北朝です。後醍醐天皇は同(南朝年号延元元)年、譲位を否定し、対立する朝廷を吉野で開きました。世にいう南朝です。南北朝の対立は、一三九二(北朝、明徳三・南朝、元中九)年の講和まで続きました。
 その間、離合集散を繰(く)り返しながら、さまざまな戦いがありました。しかし昭島の国人たちは、もう迷わなかったようです。それは前述したように、市内から出た板碑が、すべて北朝年号であることからも推測できます。
 室町時代、昭島周辺で勢力をもっていた武士団が二つあります。一つは、市の北東の、村山党の山口氏です。一つは、市の東側の、西党の立河氏です。
 村山党は、武蔵国の押領使、平忠常の孫頼任を始祖としています。
 山口氏は、頼任の孫が、入間郡山口郷を本拠地とし、たくさんの分流に分かれながらこの付近一帯に勢力を伸ばしました。
 『保元物語』や『太平記』にも登場します。『新編武蔵風土記稿』には、「山口領、横田、砂川、小川、回り田、久米川…」と、昭島周辺の村名が出ています。西党は、敏達天皇(在位五七二~八五)時代に置かれた「日祀部」の子孫と称しています。祖は「日奉氏」で「日祀を音読みして西党とした」という説がありますが、確かではありません。『吾妻鏡』には、国衙で働く役人の中に日奉氏の名が出ている他、その支流がさまざまに活躍しています。秋川沿岸から多摩川の中流を勢力圏にしていました。立河氏(P65参照)は、その名流です。
 現在の立川市柴崎町に、臨済宗建長寺派の玄武山普済寺があります。
 普済寺の創建は、文和年間(一三五二~五六)と推定されます。しかし、現在地には、当時の痕跡がなく、最初は、別の地域にあったと考えられます。
 創建時の普済寺は、段丘下の沖積低地が想定されます。当時は、現在の普済寺の辺りは、墓域であったと考えられます。多くの板碑や、地下式坑が発見されています。
 現在地への再興は、江戸初期と考えられています。館跡と考えられた土塁は、十五世紀以降のものと推定されました。立川氏との関係はまだ不明です。
 『新編武蔵風土記稿』には、福厳寺の項で「(福厳寺は)村の伝承によると、天正(一五七三~九二)以前、立河宮内少輔一族の館があったところである」としています。確かに福厳寺は、普済寺の末寺になっています。
 また寺には『福厳寺境内及び除地絵図』(明治四年)があります。これには、かつて居館であったことを推測させる、土塁が描かれています。
 しかし、これだけで、福厳寺を、立河氏の居館跡と断定することはできません。ただ、当時、現代の郷地・福島・中神一帯は、立河氏の勢力圏内であったことは、確かです。
 
◆太平記
 十四世紀末ごろにできた、南北朝の動乱を中心にした軍記物。
 多くの人の手で書かれたらしく、疑わしい点も多いが、貴重な文献。
◇国人(国衆)
 最初は、在地農民の中の、指導的位置にいる者であった。その後、国衙領や荘園の、一定範囲の年貢を請(う)け負う位置についていった。
 律令制が壊れていくと、有力者は新しい田畑をつくって私有化した。ついには、管理していた国衙領や荘園の私有性も高めていった。
 このようにして領主化していくと、当然、武力を備えるようになる。地侍とか、豪族と呼ばれる者もあった。
 南北朝時代になると、国主や荘園領主の圧力をはねのけるため、地域で団結する者もあった。国衆である。