一 二つの立河合戦

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 足利尊氏は、一三三六(建武三)年、光明天皇を擁立すると、すぐに建武式目を公布し、問注所(P64参照)や長官である執事もきめました。尊氏が征夷大将軍になるのは二年後ですが、既に、幕府の仕組みは整ったといえます。
 尊氏は、幕府は鎌倉に置きたいと考えていたようです。しかし政局が不安で、京都を離れられません。そこで、後継者の義詮(二代将軍)を鎌倉に送り、関東のかなめとしました。
 一三四九(貞和五)年、義詮を京に呼び戻す時、新たに、義詮の弟基氏を送り、正式に「鎌倉公方」としました。
 公方に、管領・守護の任命以外、関東八か国に、伊豆・甲斐を加えた十か国の、すべての権限を与えました。組織も京都とほぼ同じにしました。
 関東には、広大な土地を基盤とした、大豪族がいます。幕府が、これらを押さえていくには、鎌倉に、勢力の拠点を置く必要があると考えたのでしょう。
 一方、関東生え抜きの、開拓者の子孫である国人の中には、大豪族の侵略を受ける者も出ていました。家臣団に組み込(こ)まれそうな者も出てきました。
 幕府は、これらの国人を豪族に対抗させるために「一揆」を組ませました。一揆は、構成者の間に主従をつくらず、あくまでも、「自衛のための連合」という、関東独特の組織にしました。
 一揆が力を発揮した例に、一三六一年の、畠山国清没落事件があります。
 畠山国清は、鎌倉公方基氏の妻の兄で、公方の執事として、十年余り権勢を奮っていました。これを、一揆の力で没落させたのです。
 武蔵七党の中からも、大豪族に成長できなかった国人が、一揆に加わったと考えられます。しかし、一揆のことを書いている『太平記』にも、立河氏や昭島の国人の名は出てきません。
 辞書では、戦国時代を、一四六七(応仁元)年の応仁の乱勃発から、一五六八(永禄十二年の、織田信長入京までとしています。しかし関東では、それ以前から、戦国時代の、下剋上の様相があったと考えられます。
 そんな中で、昭島付近を舞台にした、記録に残る戦いが二つあります。いずれも、立河原合戦と呼ばれています。
 第一次立河原合戦は、永享の乱◆後です。鎌倉公方を殺してしまった後遺症として起こりました。
 管領上杉氏は、公方を滅ぼしてみて、やはり、権威の象徴があった方がよかったと気づきます。豪族たちも、公方の命令でないと従いません。
 そこで管領上杉氏は、前公方の遺児成氏◆を迎えて、鎌倉公方を、十一年ぶりに復活させました。
 しかし成氏は、父を殺した上杉氏よりも、父を奉じて戦ってくれた豪族の方を大切にします。そして一四五四(享徳三)年、成氏が上杉憲忠を誘殺したことを契機に、戦いが始まりました。
 成氏は、立河原◆東端の、府中高安寺に陣を敷(し)きました。そして、立川付近・高幡不動・分倍河原などで勝ち、緒戦は優勢でした。
 しかし幕府が、駿河の守護今川範忠を応援に出したため、上杉勢が優勢になりました。成氏は、下総古河に逃れました。古河公方の始まりです。
 幕府は鎌倉公方として、将軍義政の弟政知を下向させました。政知は、焼き払われた鎌倉を避(さ)け、伊豆堀越に居を定めました。堀越公方の始まりです。
 こうして関東は、下総・常陸・下野などを根城にする反上杉の古河公方と、武蔵・相模・伊豆等を根城とする堀越公方派に分かれ、戦いが続きました。
 その後、古河公方は勢力を失い、堀越公方は、一四九一年、新興勢力の北条早雲◆に滅ぼされました。
 第二の立河原合戦は、一五〇四年、残った、扇谷◆氏と山内◆氏という、両上杉の間で始まりました。
 山内上杉軍は、江戸攻めの布陣を敷きました。扇谷上杉軍は駿河の今川氏親と伊豆の北条早雲に応援を求めました。早くから、両上杉の争いへの介入を考えていた早雲は、すぐ動きました。
 早雲が、稲田堤に出てきたので、山内上杉軍は、立河原に陣を移しました。
 第一戦は扇谷氏が、第二戦は山内氏がと、戦いは翌年の和睦まで続きました。
 
◆永享の乱と足利成氏
 鎌倉公方四代持氏は、度々幕府と対立していた。一四三八(永享十)年、幕府との仲介役上杉憲実を討(う)とうとし、逆に自殺に追い込められた。
 持氏唯一の遺児。成氏は、越後の守護上杉房定の斡旋で鎌倉に迎えられ、公方となる。
◆立河原
 諸説あるが、一般的には、拝島から稲田堤あたりまでの、多摩川を挟んだ、段丘上の広大な草原をいう。
◆扇谷上杉・山内上杉
 尊氏・直義兄弟の母清子の、長兄上杉重顕の子孫。鎌倉での居館の地名から、扇谷、山内をつける。
◆北条早雲(一四三二~一五一九)
 出自は不詳。今川氏に仕え、伊豆を奪って自立。両上杉の対立に乗じて相模・武蔵に進出。後北条氏の祖。