二 滝山城(たきやまじょう)と拝島(はいじま)

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 一五一八(永正十五)年、北条早雲は、家督を、子の氏綱(一四八七~一五四一)に譲りました。
 氏綱は、一五二四(大永四)年、扇谷上杉氏を江戸城から追い出しました。続いて河越城・松山城を確保して、武蔵国進出の道をつくりました。
 その頃、武蔵国西南部を領する、上杉の重臣大石氏が、滝山城にいました。
 一五四六(天文十五)年、古河公方と両上杉が連合して、八万三千の大軍で、氏綱の女婿綱成が守る河越城に攻(せ)めて来ました。
 救援に赴いた、氏綱の子氏康は、兵力が、相手の十分の一しかなかったので、偽りの和議を申し入れ、油断させておいて夜襲し、大勝しました。
 この、世にいう「河越の戦」で、武蔵国の主導権は、上杉氏から後北条氏に移ったとされています。
 前述の、上杉氏の重臣大石定久は、娘比左を、氏康の二男氏照(一五四〇~九〇)に嫁がせて、氏照を養子に迎える条件で、後北条氏の軍門に降りました。
 当時は、近世のような、儒教的思想に基づく「忠義」の考えはありません。どんな場合でも、所領を安堵してくれる主人につくのが「正義」でした。
 また、戦国大名は、征服した相手の家に、自分の子どもを養子に入れるような政略結婚も、一つの戦略として、さかんに行われたのです。
 一五五二(天文二十一)年、氏康は、関東管領上杉憲政を、上野国平井城から追放しました。憲政は、越後国の守護代、長尾景虎、後の上杉謙信(一五三〇~七八)のもとに逃げました。これで、関東八か国は一応、すべて後北条の支配下に入りました。
 氏照が、正式に滝山城主になったのは、一五六〇(永禄三)年と考えられています。織田信長が、桶狭間で、駿河・遠江・三河を支配していた戦国大名今川義元(一五一九~六〇)を斬(き)った年のことです。
 一説に、拝島は、滝山城の城下町とするものがあります。
 しかし滝山城には戦国後期の、他の城に見られるような城下町はなかったようです。しかも拝島は、城とは、断崖と多摩川で隔てられています。
 しかし、一五六九(永禄十二)年、武田信玄が、後北条攻(ぜ)めの時、拝島に陣を敷いていますから、滝山城の搦手口の機能はもっていたかもしれません。拝島が賑うのは、十七世紀中ごろ以降です。

滝山城址