四 後北条(ごほうじょう)氏の滅亡(めつぼう)

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 一五八二(天正十)年、織田信長を討った明智光秀が、豊臣秀吉に討ち破られました。
 秀吉はその後、賤ヶ岳に柴田勝家を破り小牧・長久手(こまき・ながくて)の戦いの後に、徳川家康と和睦します。続いて、四国の長宗我部元親、九州の島津義久を征服します。全国統一のために残るのは、後北条氏だけになりました。
 秀吉の、全国統一の重要な政策に、刀狩と検地があります。刀狩で農民と武士を分離し、検地で、取れ高のはっきりした土地を領地として与え、政権を安定させる考えです。
 刀狩は、一五八八(天正十六)年、秀吉創建の京都東山の方広寺の「木造大仏の釘にするため」の名目で行われました。土豪や農民から強い抵抗を受けながら、強い覚悟で行われました。
 検地は、最初、信長が行いました。その時は、面積から収量まで、本人の届け出による「指出」でした。
 しかし秀吉は、統一した基準を設けたうえで、全国に有能な家臣を派遣し、実測させました。この、検地の結果を基に、大名の知行を決め、戦さの時、知行に応じた負担を決めたのです。
 秀吉の検地への強い決意がわかる文書が残っています。
 それは、後北条滅亡後、浅野長政に、東北検地を命じた時のものです。現代の言葉に意訳すると、「検地に反対する城主がいたら、城に追い込んで、一人残さず撫で斬りにせよ。一郷、二郷、届けをしない時も、百姓以下ことごとくを撫で斬りにせよ。」というものです。
 秀吉の、検地に対する、並々ならない覚悟がわかります。ところが後北条氏は、この点が遅れていたのです。
 一五八七(天正十五)年、後北条氏は、秀吉の攻撃に備えるために、領国内に動員令を下しました。これには「郷村におる侍も百姓も、十五歳以上七十歳以下の男性は、皆出てこい」と書かれていました。そして、「武器は、弓・鑓・鉄砲、何でもよい」ともありました。このことから、後北条領内では、ほとんど、兵農不分離であったことがわかります。
 戦いが、鉄砲の数と、その鉄砲を扱う足軽という、専業の兵の手に移っている時流に、後北条氏が、大きく乗り遅れていたことがわかります。
 もちろん五代当主氏直の凡庸もあります。叔父である知将氏照を使い切れず、結局、氏照と父氏政の自刃で、城兵と共に命が助かるのですから……。
 そして近世の幕が開くのです。
 後北条氏の滅亡後、他の大名に仕えたり、家康の旗本になったりした者もいます。しかし、大部分の下級武士は、帰農したと考えられます。
 松林秀一さんは、『新編武蔵風土記稿』から、「昭島周辺に、出自のわかる者三十五人、系譜が不確かな者三十九人が帰農している」と発表しています。拝島領に帰農したのは二人です。
 一人は孫左衛門の先祖の、乙幡勘解由能忠で、大石定久に仕えていました。その子助七郎只次と、その子六右衛門能正は、氏照に仕えていました。後北条滅亡後、拝島で帰農しました。
 もう一人は伝次の先祖で、後北条氏に仕えた、五十嵐小文次です。後北条滅亡後は、同族九戸と共に、柴崎で帰農しました。
 郷地の紅林さんの先祖も、この時、帰農した一人と考えられます。