一五九〇(天正十八)年、関東を支配していた後北条氏が豊臣秀吉により滅ぼされ、徳川家康が、武蔵・相模・伊豆・下総・上総・上野の六か国の新しい支配者となりました。
家康は、新しい領地に入ると、北条氏の滅亡による混乱をしずめ、周囲の大名との戦いに備えるために、強力な軍事態勢を整えることを考えました。それぞれの領地を検地◆し、石高をつかむとともに、家臣に知行地を与え、そこに配置しました。
家康の知行割◆の方針は、「小身の者は城の近く、江戸に一日で通える範囲」「城持の大身はその外延部」というものでした。昭島は、江戸の日本橋から約四十キロメートルの距離なので城の近くにあたり、小身の家臣が配置されたと思われます。
豊臣秀吉が死んだ後、家康は、一六〇〇(慶長五)年、関ヶ原の合戦により覇権を握り、一六〇三年には征夷大将軍となり、江戸に幕府を開さました。その結果、徳川家の領地は幕府領、徳川家の家臣である旗本の知行地は旗本領となりました。昭島は、幕府領と旗本領がいりまじった地域でした。何度かの地方直し◆により領主の変わることはありましたが、この支配の形は江戸幕府が滅びるまでの約二百六十年の間続きました。
昭島に住む人々は、その間、農作技術の改良や新田の開発に力を入れ、生産高を高めていきました。その結果、村は次第に大きくなり、村の仕組みも整備され、近世の村として少しずつ形を整えていきました。
農業を中心にした産業が発達するにつれて、生活の中から文化が生まれ、生活を楽しむようにもなってきました。
◆検地
領主が行った農民のもつ屋敷や田畑の調査。その結果、田畑や屋敷などの面積、等級、生産高を定め、検地帳に登録した。
◆知行・知行割
知行とは一定の土地を家臣にあずけ、その土地の年貢を給料として与えるというものである。どの土地をだれにあずけるかというのが知行割である。
◆地方直し
地方とは、町方に対する言い方。都市に対する農村のことをいう。それが、農村の土地制度までをさすようになった。地方直しとは、農村の土地支配の制度の変更のことである。