昭島の領主たち

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 家康が江戸に入ったころの昭島地域の知行割はよく分かっていません。幕府が成立してから四十年ほど後の、一六四四年ころに作成された『武蔵田園簿』によると、「拝島・田中・大神・上川原・中神は幕府領、福島・郷地は旗本領、宮沢・築地は幕府領と旗本領が混在」となっています。
 福島村は内藤氏・市川氏、郷地村は中川氏、宮沢村は鎌田氏・中根氏・平林氏・武嶋氏、築地村は岡部氏、以上八名の旗本が領主でした。これらのうち、市川氏・武嶋氏・中川氏の三氏は、寛永年間(一六二四~四三)、寛永の地方直しのときにこの地を知行地として得ているので、初めのころの領主は、内藤氏・鎌田氏・中根氏・平林氏・岡部氏の五人の旗本だったと思われます。
 江戸幕府が始まったころ、旗本は、自分が本拠にする領地に陣屋を構えて妻子を住まわせ、その地に墓を造ったようです。
 内藤氏は福島村の広福寺、鎌田氏は宮沢村の阿弥陀寺、中根氏は埼玉県高麗郡久米村の長久寺、岡部氏は高麗郡直竹村の長光寺がその墓所で、他の旗本の墓所は不明です。このことから、内藤氏と鎌田氏が、昭島に陣屋を構え居住していたと考えられます。

福島村領主内藤氏の墓


広福寺


阿弥陀寺


宮沢村領主鎌田氏の墓

 江戸幕府の体制が整い、番町・麹町・小川町などの旗本屋敷地が整うと、旗本は、幕府の兵農分離政策により、生活の根拠を江戸に移していきました。領主は村人にとって年貢を取り立てるだけの存在になっていきました。
 江戸の墓所は、内藤氏が神楽坂・善国寺、鎌田氏は牛込・久成寺、中根氏は深川・法祥寺、岡部氏は、小日向・徳雲寺にありました。
 昭島の領主たちは、三河(愛知県)から家康とともに移ってきた者ばかりではありません。
 鎌田氏、内藤氏、平林氏は、もと武田信玄、勝頼の親子に仕えていました。また、『新編武蔵風土記稿』によると、洪水により、名前だけの村となっていた作目村を知行していたという高林氏も武田の家臣でした。これらの武将は、武田氏の滅亡後、家康に召(め)し抱えられました。岡部氏は、後北条氏の重臣松田秀康に仕えていましたが、後北条氏が滅亡し、高野山にいるところを家康に見いだされました。中根氏は、家康の長男信康に仕えていましたが、信康の切腹により、家康の家臣になりました。
 領主のいない幕府領は、幕府が任命した代官により支配されていました。一六四四(正保元)年ごろ、昭島の幕府領だった拝島村・田中村・大神村・上川原村・築地村には設楽権兵衛、宮沢村には高室喜三郎、中神村には設楽権兵衛と天羽七右衛門が代官として、幕府の命令を伝えたり、年貢を徴収したりしていました。また、龍津寺や大日堂は、幕府より与えられた領地(朱印地)を持っていました。