近世の村ができる

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 江戸時代より以前の昭島地域は、「村山」といわれていた立川を含む多摩川の北岸地域に入っていました。
 徳川家康が、一五九〇(天正十八)年、江戸に入り、直ちに伊豆・下総の検地を行い、翌年にはそれを武蔵にも実施しました。これが昭島地域の近世の村の始まりでした。
 それ以前の昭島の村落の様子は明らかでありませんが、中世の人々の生活の跡を示す板碑、拝島の大日堂、大神の駒形神社、中神の熊野神社、宮沢の阿弥陀寺、福島の広福寺、上川原の日枝神社の存在は、寺社を中心に村落をつくっていたことのあかしです。
 そのうち、日枝神社は、多摩川の川辺にあった上河原の集落が同社もろとも、洪水により押し流されて、一五七九(天正七)年、現在の地に再建したものです。
 これらの集落がもとになり、近世の村落ができあがっていったと思われます。
 『新編武蔵風土記稿』によると、武蔵国の村々が「領」と呼ばれる地域で一括されています。昭島地域の村々は、「拝島領」に属していました。
 徳川の支配は、「国→郡→領→郷→村→本百姓」となっており、その郷が解体され新たに村を独立させていったようです。時代が進み、村の仕組みが整うにつれて、領も支配の意味がなくなり、村を中心とする支配の仕組みができあがっていき、九か村による近世の昭島が成立します。
 『武蔵田園簿』によると、村々の石高は、表のようになっています。
 
正保期(17世紀中ごろ)の村落の石高
村名村高
拝島57.5 163.48 220.98 
田中15.5 14.71530.215
大神16.3 47.50563.805
上川原9.6959.695
宮沢256.063159.232424.9 
中神177.605151.93 329.535
築地50.30149.20999.6 
福島245.08 133.32 378.4 
郷地119.51 88.49 208.  
合計937.864 石817.576 石1765.13 石

『武蔵田園簿』より作成
 
 市の西の地域にあたる、拝島・田中・大神・上川原の村は、畑が多く、石高も少なく開発がまだ進んでいないことを示しています。
 一方、東の地域は、石高が多く、そのうち水田が半分以上を占めています。このころには、開発がほぼ終わっていることを示しています。

拝島大日堂を中心にした村の景観
東京府下北多摩郡天台宗拝島山密厳院浄土寺真景全図 明治31年(1898)による