新しい田畑を求めて

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 江戸時代の初めのころの耕作地は、多摩川と武蔵野台地の間にあるせまい地域にありました。少ない田畑を耕し、年貢を納めなければならない村の人々は、田畑を広げ安定した生活をしたいと思っていました。また、農家の跡継ぎ以外の男子は、自分の田畑を持ち独立することを願っていました。
 幕府や領主も、より多くの年貢を得るために、農民が耕作地を広げることを望んでいました。その結果、新田開発が盛んにすすめられました。
 多摩川に沿った低湿地は、多摩川の氾濫や治水技術の遅れから開発の対象にはならず、主に北の武蔵野台地が畑として開墾されました。
 しかし、武蔵野台地は元々、地味が乏しい、荒れ地や芝地でした。地表面の浅く薄い黒土のすぐ下は厚い関東ローム、その下には砂礫層があり、保水性が悪く、地下の水位も低いところでした。そのため、「武蔵野の端々の土いか程ありても、さして御用にたたず」といわれていました。そのような所を開墾しようとした人々の耕作地への思いは、切実なものだったと思われます。
 下の表からもわかるように、十七世紀半ばから一八七〇年までに、石高が増加していきます。これは、農業技術の進歩もありますが、耕地の広がりによることも大きいようです。特に、十七世紀半ばから末までの増加が大きく、この時期に昭島では、新田開発が盛んに行われたことを示しています。
 
村高の変遷(石)
時期正保元禄天保
村名
拝島 220.98 772.551 821.273
田中  30.215 117.538 117.538
大神  63.805 212.939 274.161
上川原   9.695  43.151  88.362
宮沢 424.9 419.971 471.69
中神 329.535 424.371 475.57
築地  99.6 103.536 115.6
福島 378.4 396.844 442.7
郷地 208. 212.842 268.59
合計1765.13 2703.7433075.484

石高の変遷の表にまとめた数値は、次の資料を参考にした
 十七世紀半ば『正保田園簿』
 十七世紀末『元禄郷帳』
 十九世紀半ば『天保郷帳』
 
 また、村ごとの石高の変化をみると、増加が著しいのは、市の西部である拝島・田中・上川原・大神の四つの村と中神村で、それ以外の、東にある宮沢・築地・福島・郷地の村では、正保(一六四四~四七)の時期に開発がほぼ完了していたと思われ、著しい増加はありませんでした。