多摩川の洪水

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 江戸時代の昭島の村は、ほとんどが郷地村の絵図に見られるような景観をもっていましたが、上川原村・田中村・築地村は違う景観を持っていました。これらの村も以前は郷地村と同じであったようですが、多摩川沿いの地から移ったことが記されています。
 この三つの村は、多摩川の大洪水により村が流されてしまったという経緯がありました。
 上川原村の例を見ると、かつての村は、田中村・大神村の南にあったと思われます。現在の地に移転した年代は定かではありませんが、上川原にある日枝神社の創建が一五七九(天正七)年と伝えられているので、それより少し前と考えられます。
 集落が移転するとなると、その移転先が問題になりますが、当然、既にある村の場所を避(さ)けなければなりません。田中村・大神村の地域より北側に開村することになります。つまり、現在の上川原町の南の境界までが、田中村や大神村の村域でした。
 そのため、大神村が新田を開発するには、上川原村の北部の地域が対象になり、上川原村の新田はさらにその北の地域、武蔵野新田を開発したのです。
 築地村も洪水により、しばしば耕地と家屋を押(お)し流された地域でした。
 築地の地名からもわかるように、多摩川沿いの低地に土盛りをしたような地域にあった村と考えられます。
 それが、一八一一(文化八)年の大洪水で寺社ともども流失し、築地村の旧地は完全に河原になってしまいました。
 田中村の中には、以前の作目村が含まれていました。
 作目村は、かつて田中・拝島と多摩川を隔てた対岸にありましたが、文禄・慶長(ぶんろく・けいちょう)(一五九二~一六一四)のころ、洪水により耕地と家屋が押し流され、人々は田中村に移転してきたといわれ、村の名だけが明治になるまで残っていました。

洪水(想像図)