一七二〇(享保五)年、この村は、村高四十三石一斗(と)五升一合で、耕地はすべて畑でした。家の数は二十七戸、人口は百三十七人でみな農民でした。
各農民の持ち高は、本百姓二十七人のうち、一番多い人でも八石であり、大半の人が零細な経営でした。年貢を納めた残りの農業収入では生活が成り立たず、農作業の合間に、村の外へ出ての駄賃稼ぎや養蚕なども行っていました。
このような不安定な経営を安定させ、村として発展するためには、新しい耕作地がなんとしても必要でした。そのため、「村ぐるみの願望」として、一七二四(享保九)年、代官に「開発願書」を提出しました。
開墾(想像図)