進まぬ開墾

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 「開発願書」では、七十町の開発を願い出たものの、幕府より割り渡されたのはわずか九町五反でした。そのため、村では、拝島村から玉川上水の両側にあった、四十五町五反の萱場を譲り受けました。
 上川原村の農民は、開発地を割り当てられ、開墾に取りかかりましたが、開発は容易には進みませんでした。
 割り当てられた開発地は、当然、芝地や荒れ地で耕作をすることは不可能でした。そこを、人の力で、鋤や鍬を使って開墾するのですから大変な苦労でした。少しの収穫もありませんでした。鍬下年季で年貢は免除されるものの、開発御役米を開発地の面積に応じて金納させられました。
 さらに、鍬下年季が終わると、耕地にならなくても高い率の年貢を納めなければなりませんでした。
 五年後の享保十四年の秋までに実際に開墾されたのは、わずか二町余りで、その後も開発がすすみませんでした。さらに、自然災害にも見舞われ、せっかく手にした新田の権利を宮沢村に売り渡すことにより、急場をしのぐこともありました。
 新田の経営がうまく進展しなかったことは、畑地の頻繁な売買にも現れました。村の内部だけでなく、他の村とも売買が行われました。大神村の四人が上川原村の土地を所有していたり、大神村の人から金銭を借りたりしていたこともあったようです。
 しかし、そのような困難に出会いながらも、農民たちの耕地拡大への思いは強く、開発を始めてから二十二年後、一七四六(延享三)年には、本田を所有した農民は三十人、新田を所有した者は二十八人、村高八十八石三斗(と)六升二合になっています。
 上川原村ほど石高の増加は見られませんが、昭島の他の村も、新田を求め開発に力を注ぎ、十八世紀には、現在の昭島の原型を作り上げました。