宿場町だった拝島

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 八王子より拝島橋を渡り昭島に入ると奥多摩街道にぶつかります。現在の国道十六号線は、そのまま直進していますが、以前はここで左折し、奥多摩街道と合流していました。拝島の町なかを西進し、およそ一キロメートルほど行くと、道は大きく右へカーブし、奥多摩街道と分かれて再び拝島駅の方向に北進しています。このように、町の両方の出口がそれぞれ大きくかぎ型に曲がっているのは、この時代の宿駅の典型で、拝島村が宿駅であったことの名残です。攻(せ)めてくる敵に備えての防衛的な意図があったといわれています。
 高橋源一郎の著書『武蔵野歴史地理』には、「ここ(拝島)は、市場としては誠に典型的の場で、南、八王子の方より来れば、下宿の入口にて道路は画然一屈曲し、これより西北中宿を経て上宿となり、上宿の出口で又一屈曲している。而して三宿通じて最近まで用水堀が道路の中央を流れていた」と記されています。この景観は、江戸時代でも同じだったと思われます。

拝島宿(拝島町 明治35年ころ)昭島市民秘蔵写真集より

 八王子より拝島村を通り北の箱根ヶ崎へと抜(ぬ)けて行くこの道は、八王子の千人同心が日光への往還に使った道であり、日光街道とも呼ばれていました。拝島の村は、その宿駅としての役割を持っていました。
 したがって、拝島村は、町場の景観を持つようになり、家の数は、一八四一(天保十二)年には百五十九軒ありました。それぞれの家は街道に沿って並んでいましたが、農業を兼業している家が大部分でした。