拝島宿の変貌

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 村の人々の生活は、すべてが自給できるわけではありませんでした。また、年貢や小物成の一部は金納でしたし、畑地の年貢も金納でした。そのために、昭島の村々では、年貢を納めるために、農作物を売り、貨幣を得る必要がありました。このことから、昭島では、かなり早い時期から商品貨幣経済が入りこんでいました。
 農作物を売り、貨幣を得ると共に、生活に必要なものを買ってくる場は、八王子の市でした。八王子に市の立つ日には、拝島の渡しや築地の渡しの船で多摩川を渡り、八王子まで穀物やその他の農産物を売りにでかけました。
 各村では、農閑期の婦女子の仕事として、機織りが盛んに行われていました。昭島で織られていたのは、絹織物の青梅縞や黒八丈でした。

機織り(立川市・昭和40年代)

 これらの織物は、江戸へ反物として出荷していましたが、拝島はこの織物の出荷場所としての機能を持つようになり、市が立つようになりました。一七八一(天明元)年には、年間五千疋の絹縞と千疋の太織縞が取り引きされていました。
 のちに、拝島の織物取引の市は廃止されますが、拝島村の商人を仲買として、江戸の市場に運ばれ、養蚕業はますます盛んになっていきました。
 しかし、市の廃止後も、拝島の町場としての機能は存続しました。そして、生活に必要な物資を扱う村の人々が、農業のかたわら、常設の店を出し、拝島村だけでなく、近隣の村の人々の生活を支えていました。
 拝島の市は、村民の復活の願いが強く、一八五〇(嘉永三)年に復活をし、年四回開かれるようになりました。