変わっていく農業

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 養蚕業だけでなく、十八世紀の後半に入ると、商品作物の生産が盛んになり、それにつれて昭島の村々の農業も形を変えてきました。穀物中心の生産から、穀物だけでなく、市場でよく売れる物や高く売れる物を生産するようになってきました。
 上川原村を例に見てみると、江戸時代を通じて主要な生産物は、大麦・小麦・粟・稗などの雑穀類でした。このうち、大麦・粟は農民たちの主要な食糧であり、稗は、飢饉のときの備えとして倉に蓄えておかれました。米がないのは、上川原村の耕地が畑だけのためで、田を保有する他の村では、これに米が加わりました。
 これらの作物に加え、江戸の中ごろには、蔬菜類の生産が見られるようになってきました。また、江戸時代の終わりのころには、大豆や小豆の生産も行われるようになってきました。さらに、以前から栽培されていた桑や茶の生産がいっそう盛んになりました。

郷地の大桑
この時代に植えられたといわれています。現在の桑に比べ、古い品種です。

 このような農業の変化は、田が少なく、やせた畑を耕作し、荒れ地を新田に変えてきた昭島の村々の人々の工夫と努力の結果でした。
 桑や茶は、やせた水分の乏しい場所でも育ちました。大豆や小豆も肥料をあまり必要としませんでした。そのため、開発された新田でも育つ物であり、手間をかける事により、商品として市場に出すことができました。
 また、藍の栽培も、多摩川の河畔を利用して行われるようになりました。藍は、煙草と同様栽培に手間がかかり、技術も必要でしたが、市場での利益の大きいものでした。
 商品の流通が盛んになり、市場を介して商品経済が村に入って来ることにより、村の農業が変わってきました。

上川原村の畑方作付品目の変化 村明細帳より作成

 
◇拝島の桑の木
 織物取引の市が立たなくなった時期でも、拝島の織物業が衰えたわけではなかった。大田南畝(蜀山人)は、幕府の役人として、玉川上水の巡視の折、拝島に立ち寄り、その著書に次のように記している。「拝島の宿をいで、水車のある農家をかたわらより畑に出れば、桑の木多し」