商品作物の生産が盛んになり、農業が変化するとともに、村の構造にも変化が現れました。
商品作物の売買により大きな利益を得ることのできた農民と、逆に、失敗して貧困化していった農民に大きく分かれていきました。上層の農民は、その経済力をもとに大きな利益を得ていきましたが、下層に属していた農民は、商品価格の変動や災害などにより、自分の農地を失う者も出てきました。
また、商品の流通とともに人の出入りも活発になり、村の秩序が崩れだし、身分制度の維持も危機に陥るようになってきました。無宿人や悪党が出没し、違法な行為を繰(く)り返すようになってきました。
幕府は、関東一円の領内の秩序と身分制度の維持を立て直し、幕府の安定を図るために、一八二七(文政十)年、文政の改革を打ち出しました。
この改革は、関東取締出役と担当地域を受け持つ、その配下により、関東の村々を取(と)り締(し)まることが目的でした。四十五ヶ条もある触書による村々の治安対策、経済対策が示され、村や村人の生活を細かく規制するものでした。さらに、いままでのように村ごとではなく、一定の地域をまとめて統制しようとするものでした。
この結果、昭島の村も、西半分の拝島・田中・作目・上川原・大神の村が、福生、羽村、瑞穂、立川(砂川)、武蔵村山、東大和などの地域の村といっしょに、二十五の村からなる拝島組合村に入りました。また東半分の村は、日野宿組合に所属しました。この大組合は、八つの小組合に分かれていて、郷地、築地、福島、中神、宮沢の各村は、柴崎村とともに壱番組を構成していました。
まず、治安対策として、無宿者の取り押さえとその費用の分担が組合村に課せられるようになりました。また、各村が法度に違反しないよう、たがいに監視することも義務づけられました。
この制度は幕府が滅亡するまで続きましたが、各村はその費用の負担で、財政を圧迫されるようになりました。
また、経済対策として、商業の取り締まりや規制が行われるようになりました。大規模な農間稼ぎ調査が行われ、職人の手間代から日雇賃金、豆腐・酒・菓子の価格にまで統制が加えられるようになりました。
村の秩序は安定するようになったものの、財政の負担が大きく、農民の経営をいっそう苦しめるという結果になりました。