江戸時代には何度も飢饉がありましたが、昭島に決定的な影響を及ぼしたのが、一八三三(天保四)年と天保七・八年の二つでした。
天保四年の凶作は、多くの村々から、年貢の減免願いや夫食拝借の願いが出されました。さらに、それに続く天保七年の異常な降雨と冷害、八年の暴風雨は、村にとって壊滅的な被害をもたらしました。そのうえ、このような凶作をみた商人たちの穀物の買占め、売惜しみが加わりました。
昭島の地域は一揆の舞台にならなかったものの、飢餓と一揆への恐れの中で天保の飢饉の時期を過ごしていました。
田中村の農民が出した夫食拝借を要求する訴状には、農民の八割が、その日その日の生活を送ることが困難になったとありました。
代官所や領主のなかには、夫食の要求に応えた者もいましたが、通常のときでも赤字であった旗本領主に十分な力は有りませんでした。それよりも、飢饉による物価の上昇が自分の赤字財政に一層の拍車をかけ、領民からの収奪を強めました。そのため、村の人々の窮乏はよりひどいものになりました。結局、窮乏救済の中心は村の上層部の農民たちでした。