大地主の出現

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 天保の飢饉は、昭島の村々の構成に大きな変化をもたらしました。飢饉の影響は、貧しかった人々に、より大きな被害をもたらしました。
 飢饉により経営を維持できなくなってしまった人々は、耕作地や屋敷を手放したり、潰れ百姓となったりしました。このような貧農の手放した土地を積極的に手に入れ、大地主となる村人もいました。
 商品作物が盛んに生産され、商品の流通が活発になるにつれ、その売買に携わり大きな利益を得る村人がいました。中神村に住んでいた中野家もその一例です。中野家は、一七六六(明和三)年ごろには、縞の仲買をしていたと記されています。
 中野家は、縞の仲買を中心にした商業活動をしていましたが、ほかに質店を経営し、周辺の農民や商人、旗本などを対象にした金の貸付も行っていました。
 
天保8(1837)年 中神村中野家施行 中野家文書「天保8年2月米、粟貸付家数加え帳」より作成。
村名人数施行量
中神村30米、粟3石4斗
宮沢村17 〃1石6斗5升
築地村6 〃 8石5升
大神村14 〃 1石6斗
上川原村7 〃 1石5升
福島村17 〃 2石3斗
粟須村15 〃 1石8斗
田中村6 〃 7斗5升
拝島村不明 1両


中野家の屋敷図

中野家の金貸し方の推移 昭島市史より
天保1両
以下
5両
以下
10両
以下
20両
以下
50両
以下
100両
以下
100両
以上
合計
2495782439
331012553240
451613165450
5326181182775
6113828121247112
786422101248128
810611981377125
9155717141376129
1012521471069110
11115515414510114
12124420815311113
13114225914412117
14124023711513111
151253191620513138

 商品作物の生産は、その売買により大きな利益を得ることのできた農民と、逆に、失敗して貧困化していった農民に大きく分かれる現象を生み出しました。上層の農民は、その経済力をもとに大きな利益を得ていきましたが、下層に属していた農民は、商品価格の変動や災害などにより、自分の農地を失う者も出てきました。
 この傾向を決定的にしたのが天保の飢饉でした。天保期の中野家の土地の様子をみると、中神村の半数近い四十七人もの農民が中野家に土地を譲渡していました。借金のために耕地を手放し小作農になったり、耕地だけでなく家屋敷まで失う農民も数多くありました。
 このような社会の動きの中で、中野家は、田畑を買い取ったり、担保にした貸付とその質流れにより、自分の土地を多く持つようになりました。
 また、組頭や名主などの村役人の地位についたり、旗本の家の財政を担当したりもしてその力を広げていき、中神村の耕地の約三分の一が中野家のものになりました。最終的には、百五十石以上の土地を持つほどになり、多摩でも有数の地主に成長していきました。
 中野家の仲買の取引先を見ると、江戸の三井や槌屋といった大店にとどまらず、大阪、高崎、東金、長野、新潟、滋賀などの商人とも取引をしていました。
 
中野家の顧客 中野家文書『天保六年店卸帳』より作成。
名前貸金(両)貸銭(貫)
江戸藤井55.1.08,050
三井向(店)67.2.01,132
伊勢吉31.2.316,700
布袋屋50.3.024,100
高崎布袋屋24.0.0 ,350
近三24.1.04,450
槌四37.1.03,950
小橋屋38.3.01,824
なら作41.0.0 ,672
柏屋50.1.0 ,724
水口22.2.01,180
土井31.2.02,750
近八幡安26.1.01,100
信州万屋32.1.2 ,600
五日市喜八28.3.0
恵八110.3.0
その他45軒