江戸では、滝沢馬琴が書いた『南総里見八犬伝』や山東京伝の『御存商売物』といった作品が人々の間で盛んに読まれていました。昭島の人々も、それらの読み物を買い求めたり、借りたりして読んだと思われます。
このころ、郷地村に不老軒うたたという文化人がいました。これはペンネームで、本名は、宮崎伊八(与八とするものもある)といいました。
宮崎家は郷地村の村役人であり、うたたはその一族でした。生まれたのは、宝暦期(一七五一~六四)とされていますので、昭島の地域や周辺の村に俳諧が流行しだした文化・文政のころにはその指導者として活躍していました。
当時の『武蔵名勝図絵』によると、うたたは、農業のほかに、豆腐と短ざくの製造をして生計を立てていました。
蜀山人が、うたたをたずねた時、うたたは、豆腐づくりの仕事にとりかかっていたため応対に出られず、
我家は 豆腐の箱で 穴だらけ
霰のような 雪がふりこむ
このように自分の生き方を狂歌にして蜀山人に渡したといわれています。
この狂歌からうかがえるように、上層の農民の家に生まれたうたたは、文学に精力をついやした結果、生活は豊かではなかったようです。しかし、人とは異なる才能を持った奇人として広く認められていたようでした。
このうたたが、『露草双紙』という読み物を書きました。作家を職業としたわけでないため、読み物はこの作品だけでしたが、全六巻、二十回の話からなる大作でした。
月の野露草双紙
不老軒うたたの墓誌(宝積寺)