文字を読む人々

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 この時代、文字を覚え学問をする場は限られていました。武士の子弟であれば、藩がつくった藩校に通い、武芸を身につけることができましたが、そこは限られた人だけの学校でした。
 武士の身分に属さない人々は、自ら学ぶことのできる場を見つけ、文字や計算を覚えるしか方法はありませんでした。
 名主をはじめ村役人は読み書きができなくてはその役目を果たすことができません。また、商取引を盛んに行っていた村人たちも同様であり、取引に必要な読み書きや計算の知識は不可欠のものでした。
 昭島の地域では、中下層に属していた農民も商品作物を生産し、その生産技術の改良や作物の取引には深い関心を持っていたため、読み書きを身につけることには、深い関心がありました。このような人々に読み書きや計算などの基礎的な知識を教えたのが、寺子屋でした。寺子屋とは、お寺に限らず、当時学問的な知識を持っていた人が、子どもに読み書きを身につけさせたいという願いに応じてひらいた、庶民のための教育の場でした。武士・神官・僧侶・医者などが師匠になり、自然発生的に開設されました。
 当時の昭島の地域のどこに寺子屋があったか資料に残ってはいません。しかし、文化・文政(ぶんか・ぶんせい)の時代に、多数の和歌・俳諧をたしなむ人がいたということは、当時の昭島にも、おそらく一村か二村に一人くらいは寺子屋を開き、子どもたちに読み書きを教えた人物がいたと思われます。
 福厳寺の光国和尚の一八四七(弘化四)年の日記によれば、先住の天厳和尚の時に寺子屋が開かれていたと記録されています。また、大神村の中村半左衛門が家作を利用して寺子屋を開いた記録もあります。寺院の多い昭島の地域であり、寺院が中心になって村の子弟に教えていたと考えられます。
 全国でその就学率は男子四〇%、女子一〇%に達していたとも言われ、明治維新が成功したのは、この寺子屋教育によるともいわれています。

寺子屋の様子