嘉右衛門織の登場

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 大神村で寺子屋を開いたという中村半左衛門の父嘉右衛門は、俳号を季翠といい、幕末から明治にかけて生きた俳諧の達人で多くの句を残しました。

季翠中村嘉右衛門の個人句集の一部

 彼は、俳人であるとともに、織物経営にその手腕を発揮し、この時期の昭島の経済の発展に力を尽(つ)くしました。
 嘉右衛門は、一八二九(文政十二)年、筑前(福岡県)や上州(群馬県)の織物先進地に学び、博多織帯地の生産を試みました。染色や紡績のやり方を改良し、織子を新たに組織し生産を始め、製品を八王子市場に出荷していました。その帯地は、嘉右衛門織として評判になりました。
 嘉右衛門は、年間に、四~五か村の生産量に当るほどの生糸を、仲買商人から購入していました。この量は、四人いたという奉公人や中村家の家族で織物加工できる量ではありませんでした。村の内外の農民の婦女子を織子として組織し、購入した原料糸を貸(か)し与え、加工させました。
 織子には、原料糸の他にも道具や生活費を貸し与え、製品は一括して織り元である嘉右衛門の手に入るようになっていました。
 嘉右衛門は、問屋・仲買・高利貸の性質を兼(か)ね備え、織子農民を組織する「織元」である問屋制家内工業の経営者であったといえます。
 博多織帯地が町人に日常的に用いられる帯地として広まったことに目をつけるとともに、その染色や紡績の方法を改良するばかりでなく、いち早く問屋制家内工業の生産システムを導入する等、家業にも精を出し、うたたとは異なるタイプの、経営感覚にも優れた文化人のようでした。