近世の集落と信仰

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 昭島の西端、拝島村の天神社・龍津寺から東端の郷地村の稲荷社・宝積寺まで、昭島の社寺は、ほぼ多摩川と並行の河岸段丘の崖線にそって分布しています。水の得やすい段丘に沿って集落をつくり、そこに寺社を整え、農業生活を安定させようとしたことのあかしでしょう。

稲荷神社(郷地町)


宝積寺(郷地町)

 社寺は、村の文化の中心でもありました。近代のように都市化が進む前は、村民全員が一致して深く信仰する村の社寺があり、そこが心のよりどころ、文化センターとしての役割を果たしていました。
 自然条件に深く制約される農耕社会では、社会道徳や日常生活、農業生産において、信仰の果たす役割は大きなものでした。近世の集落にとって、鎮守社と菩提寺は、村人の農業や生活から死後の世界まで、安全と繁栄をもたらしてくれる精神的な支えでした。村で生活していくためには、寺社の信仰とその行事に参加することは欠かすことのできないものでした。
 キリスト教が急速に広まると、幕府は何度も禁止令を出しました。それにもかかわらず、ついに一六三七(寛永十四)年には天草・島原の乱(あまくさ・しまばらのらん)が起こりました。幕府は、一六四〇(寛永十七)年、宗門改めを置き、村の人々を領主による武力の支配と合わせて、キリスト教を信じることを禁止、寺を通して宗教的にも支配するようにしました。すべての人は必ずどこかの仏教寺院の檀家に登録させるという「寺請制度」でした。昭島の地域でも、村の人々は檀家登録を義務づけられ、檀家登録を示す「宗門人別帳」は、村役人が揃えておかなければならない重要書類の一つでした。