社会の変化と新しい信仰

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 十八世紀に入ると、商品作物の流通を通して、村の社会的・経済的な変動が、同じ社寺を信仰し、それをよりどころとしていた村の人々の考え方にも、変化をもたらしました。
 近世集落の社寺信仰は、農業生産・日常生活の安全・死者の追悼・来世での救済など、村人のさまざまな願いを満たしてくれるものでした。それが、社会の変化とともに、拡大する村人の新たな願いや願望を満足させる、新しい信仰を求めるようになってきました。
 その一つの例が講でした。大山信仰・富士信仰・伊勢信仰などが広まると、村人は講をつくり、代参講といって代表が交代でそこに参詣に行くようになりました。
 また、伊勢・榛名・戸隠などの神社から、御師(おし・おんし)とよばれる下層神官が村を巡回してお札を配って歩き、講話をするという習慣もありました。
 代参講に出かけた者、御師として村を訪れる者、これらの人々も村に新しい情報や文化をもたらし、新しい文化を波及させました。
 昭島のなかでは、これらの講の中でも富士講がかなり盛んでした。
 富士講は、富士山を霊山とする山岳信仰で、それを信じることにより天下泰平・一家繁栄・病苦退散などが得られるという呪術的傾向のある信仰でした。江戸とその周辺の村々で盛んに信仰されました。行者が先達して富士登山を行ったり、地域に富士塚をつくりそこに参詣したりしました。

上川原の富士塚(昭和50年代)

 福島村の柳川直右衛門は、行者として、明治九(一八七六)年には、五十七回目の登山をし、昭島をはじめ八王子、青梅、武蔵村山の講中の人から、記念碑(ひ)を建ててもらいました。

柳川直右衛門記念碑(広福寺内)

 講の代参として詣でることは、村人にとっては大きな娯楽であり、裕福な人々は農閑期を利用して盛んに出かけました。
 また、村の外にある新しい寺社を招き、村の鎮守社や菩提寺に承認を受けて小さな祠を建てることも盛んに行われました。