一 黒船がやってきて

122 ~ 122
 一八五三(嘉永六)年、アメリカ東インド艦隊の司令長官ペリーが、四隻の軍船を率いて浦賀にやってきて、武力を背景に開国を要求してきました。
 経済的にゆき詰(づ)まり、政治力も弱くなっていた幕府には、それを拒否することも、追い返す力も残っていませんでした。ペリーの持参した国書を受理し、翌年には、日米和親条約を結び、下田・箱館の港へのアメリカ船の寄港と下田に領事を置くことを認めました。
 さらに、一八五八(安政五)年には、ペリーの後を受けた総領事ハリスと日米修好通商条約を結び、通商関係を持つようになりました。この結果、これと似た条約をヨーロッパの国々と結び、一六三九年から続けてきた鎖国が終わりました。
 黒船来航の記録は、昭島に残ってはいないようですが、江戸や他地域の人々との間に交流のあった人には、何らかの情報が伝わっていたと思われます。しかし、黒船が昭島の村々に直接影響を及ぼすようなことはなかったと思われます。
 ところが、鎖国が終わり、通商関係が結ばれ、外国との貿易が始まると、昭島の人々にも大きな変動をもたらすようになりました。