開港による養蚕と製糸業の発達は、昭島の村々に好景気をもたらしました。上川原村の人口の変化にもそれが現れ、開港直前の一八五五(安政二)年に比べ、一八六八(慶応四)年には著しい増加がありました。これは、村が豊かになり、村の中で仕事をする機会が増えた結果でした。しかし、一方では織物業が衰退していくという現象も現れました。開港するまで、昭島の村では、生糸を生産し、それを農閑期の稼ぎとして女性が織り、仲買商人に売るという流れが中心でした。
ところが、生糸の段階で高く売れ、生糸が大量に買(か)い占(し)められ、海外に輸出されるようになったことにより、織物の生産が行われなくなりました。
中野家のように、農家で生産された織物を集め、その仲買をしていた商人にとっては大変な痛手となりました。